オフで出したかった話だけれども、丸っと変えることにしたので。
全ては万事屋に届いた一通の手紙から始まった。
「銀ちゃん銀ちゃん、凄い重たい手紙来たアル」
郵便受けを開けた神楽は、新聞や他の郵便物を抱えながらそれを銀時に見せた。いつもの定位置である一人掛けの椅子に身体を凭れさせながらテレビを見ていた銀時は、神楽のその言葉に反応してそちらに目を向けた。神楽の手には薄く色づいた封筒があり、確かに分厚かった。封筒それ自体は女性ものを思わせる円やかな色彩であったが、その不自然な厚みに銀時は恋文ではなかろうかと胸を弾ませるどころか、訝しげに眉を寄せてその手紙を見た。
「んだよ、それ。誰からだ」
「えっと、ひがし、いく? ぎょう?」
手紙を裏返した神楽はその宛名に眉を寄せた。話す分には不都合はないが、まだまだ地を読むには至らない。それでも自分の知識を総動員して、少しばかり自信の無さを滲ませながらもなんとかその漢字を読んでみせた。
神楽が発したその単語に、銀時の表情が固まる。微かに強張ったその変化に封筒に視線を落としていた神楽は気付くこともなく、新八が部屋に入ってきた瞬間にはいつも通りの死んだ魚の目になっていたため、誰の目にも触れることはなかった。
「こんにちはー、って、神楽ちゃんどうしたの。なにそれ」
「あ、新八。なんか無駄に重い手紙届いたアルヨ」
これ、と神楽は新八に手紙を手渡した。その重みに、新八も素直に驚きを示した。
「わ、本当に重いね。なんだろう、剃刀とか入ってるのかな…。銀さん一体なにしちゃったんですか」
「あ? なんもしてねーんですけど」
突然の新八の言葉に銀時の眉が寄る。言われのない侮辱だと口を尖らせれば神楽は新八に味方した。
「きっと酔ってそこらの女といちゃいちゃ乳繰り合ったネ。それでその恨み節がつらつらと綴られてるのかも知れないヨ」
「おめーは週刊誌とかの読みすぎですよ。もう絶対読ませねーからな。銀さんの教育方針に反する雑誌は絶対読ませません。ジャンプ以外読ませねーから。もうジャンプだけ読んでろ」
そんな仕様もないやり取りを尻目に、新八は銀時にその封筒を差し出した。まだ封は切られていない。差し出されたそれを、銀時はほんの少し眉を寄せて見つめた。
「…んだよ、なんで俺に渡すんだよ。仮にこれが剃刀レターだとして、おまえは銀さんがどうなってもいいんですか」
「いやだって一応銀さん宛てのお手紙ですから。僕らが開けるのもどうかと。それに、万事屋銀ちゃん宛てだから仕事の依頼とかそんなんじゃないですかね」
それに良い匂いしますし、と言う新八の言葉通り、香でも焚き染めてあるのかふわりと万事屋にはない匂いが銀時の鼻孔をくすぐった。その香りに銀時は覚えがあったが、顔には出さずにただただ面倒くさそうに眉を寄せ続けている。
そんな銀時に代わりに、神楽が首を傾げた。
「でもその匂い、どっかで嗅いだ事のある匂いアル…」
一体何処だったのだろうと真剣に考え込み始めた神楽を、そこらの雑踏で嗅いだのだろうと銀時は軽くあしらう。そして必要以上に警戒を露わにして鋏で封を切った。中を覗きこめば、見えたのは便箋だけではなく、何かを包み込んだ紙だった。どうやら剃刀は入っていないようだ。
「なんだ…?」
便箋と、その包みを取り出す。テープで簡単に留められた封をとれば、現れたのは紙幣だった。注視していた子供たちが歓声を上げる。
「凄いネ! 初めて見たアル! 貸して! 私触りたいネ!」
「玩具じゃねーンだよやめろ」
目を輝かせて紙幣の束に手を伸ばした神楽から遠ざけ、銀時は言った。手の中の紙幣に銀時も少なからず動揺していたが気だるげな態度は崩さない。新八も驚いているようだが、神楽のような反応は見せずに言った。
「手紙の方はなんて書いてあるんですか」
「あ? あー、新八読んどいてくれや」
「プライベートな手紙だったらどうするんですか」
「生憎皆の銀さんには疾しいことなど何一つないから大丈夫ですゥ」
銀時が便箋を無造作に突き出せば、新八は仕方なさそうに溜め息をつきながらもそれを受け取り、目を通した。銀時はそれを、不自然ではない程度に、それでも意識をして見つめていた。新八の目が動く。
「お仕事の依頼ですね。このお金は前金だそうですよ。足りなかったらまた後で払うって書いてあります」
「こんな大金前金で出すなんて、どんな依頼だよ。めんどくせーことはごめんだぞ」
「護衛、だそうです」
「護衛ィ?」
さらりと発せられた言葉に、銀時の眉が寄る。アレにそんなものが必要あるわけないではないか。そんな言葉が口を突こうとして、寸での処で飲み込んだ。「春風」という名前以外、依頼人の情報など何も知らないのに、そんなことを口走るのは可笑しいだろう。中途半端に開いた口を噤めば新八は便箋を渡してきた。ふわり、また香る。
「荷物持ち兼、って書いてありますけどね。旅行に行くのに重たいもの持ちたくないから、運んでもらいたいって書いてありますよ。護衛よりそっちの方がメインみたいですね」
「ハイハイ! 私行くヨ! 荷物くらい持つネ! 旅行! 温泉! 屋形船!」
「誰もそんなこと言ってねーだろうが。だいたい、依頼はガキの面倒見たいじゃなくて、護衛なんだよ。おめーが行ったら面倒かけるだけじゃねーか。っつか仮にも年頃の娘が素性も知らない奴と旅行とか、銀さん許しませんよ。依頼主が男でも女でも許しません」
俺が行くと銀時が言えば、神楽は不満の色を隠そうとはしなかった。それでも銀時は頑なに神楽の不平不満をそっぽを向いて聞き流し続けていた。銀時が手放した手紙を拾い上げて、新八は嘆息しながら言った。
「それにしても、そんな荷物持ち位でこんな大金出すなんて、旅費も向こう持ちだし凄いお金持ちなんですかね。専属のボディガード位いそうだけどなァ」
「アレヨ、お嬢様が執事たちに内緒でお忍び旅行アル。だから大っぴらに出来ずに銀ちゃんみたいなのに頼んできたネ。きっとそうヨ」
だから女同士私が行きたいと結論付ける神楽の言葉を銀時は一瞬で却下する。不満げに口を尖らせ悪態をついていた神楽だったが、ふと思い出したように手を叩いた。
「あ。違うネ。前金それだけじゃないヨ。お登勢さん言ってたネ。依頼人が前金代わりにって滞納してた家賃払ってったって」
「ハァ? なんだよそれ、俺聞いてねーし」
「だって今思い出したヨ。後日、正式に依頼するつもりだけどとりあえず、って言ってたらしいネ。あ、知らない男の人だったって」
「家賃の督促に来ねぇと思ったらババァ…、なに受け取ってんだよ…」
「ってことはもう断るに断れないってことですね」
今更お登勢にその金を返してくれと言った所で、代わりに払う金もない。金銭を受け取ってしまった以上、引きうける以外に他ない現実を知り、新八はほんの少しだけ眉を下げた。そんな新八の反応に、銀時は訝しげに新八を見遣った。
「なんで断ること考えてんだよ」
「え、だって銀さん乗り気じゃなさそうだし…」
いつも面倒くさそうにしているけれど、それでも銀時は引き受けた仕事は真摯に取り組んでいる。しかし今の銀時は何処かいつもと違い、何処か依頼そのものを渋っているように新八には見えていた。
真っすぐな新八の言葉に銀時は口を閉ざした。だが神楽は言う。
「仕事選んでる場合じゃないネ。今月もうちは火の車ヨ」
「おめーが言うな。うちのエンゲル係数跳ねあげてるのはおめーですよコノヤロー」
キャンキャンと吠えあって騒ぎが大きくなる。開け放たれている窓から入り込んだ風が、机の上に置かれている便箋を微かに揺らしていた。
* * *
手紙で予め指定された日、指定された場所に、銀時は独りで向かった。
閑静、というよりも人を厭うような空気を漂わせた街の隅にそいつは居た。現れた銀時の姿を認め、痩せた印象を抱かせるその男は口を開く。静かな、低い声だった。
「坂田銀時様ですね」
「あぁ。あんたが今回の依頼主?」
「お待ちしておりました。どうぞ、此方へ」
口調こそ慇懃だが礼の一つもせずに、男は銀時を誘い歩いた。右へ曲がり、左へ曲がり、そうかと思ったらまた右へ、右へ、左へ、複雑な経路を進んでいく。足を動かした割に殆ど先に進んでいないのは明らかだったが、銀時は何も言わずその後を付いて行った。追手でも警戒しているのだろう。明らかに尾行をまこうとしているのが分かった。そんなものがいるのかどうか、気を配っていない銀時にはよく分からないし、それが悪意と殺意を持って襲いかかってこない限り、どうでもいいことだった。
ますます人気のない通りに入り込んで、其処にひっそりと存在した宿の暖簾をくぐった。来るものを拒絶するような外観にそぐわぬ、優しそうな老婆が声を掛けてくる。お待ちしておりました、という言葉はきっと嘘ではないのだろう。
「この廊下の先、角の部屋に貴方のご想像通りの方が居られます」
扉が闇に沈んでいるような、暗い廊下の先を指差して男は初めて恭しく一礼した。
銀時がその廊下を進むのを見届けるかのように、男はその場に佇み銀時を見ている。
「……」
連れられるまま来てしまったが、銀時の心は重い。せめて照明を付けるなり、見せかけだけの偽りであろうとも明るい雰囲気を醸し出しておいてくれれば、今この場に立っている気分も違っただろうに。
それでも一歩、足を進めれば痛んでいる廊下は悲鳴を上げた。進む度にギシギシと頼りない音を立てるこの宿はきっとあの老婆が亡くなると同時に世界からも消えるのだろう。申し訳程度に修復されている廊下を見て、銀時はぼんやりとそんなことを考えていた。
長くない廊下は直ぐに扉に突き当たった。ドアノブを掴み、回した。それはやはり派手な音を立てながら、それでも簡単に開いた。少し開けば光が零れてくる。覚悟を決めて大きく開いた。
眩い。今までの暗闇から一転、闇に慣れた瞳に眩しすぎる光量を得て銀時は目を細め、眉を寄せた。誰もいない。しかし人の気配を感じる。白い障子の張られた襖が、二人を隔てていた。
襖に指を掛け、銀時は深呼吸をひとつした。
目を伏せて、開ける。指先に力を込めて、意を決して襖も開けた。
飛び込んできたのは開け放たれた窓の向こうに見える青空だった。綺麗だと、率直に重い息を飲んだ。その青空の真ん中に座っていたその人は、窓から入り込む風に髪を揺らしながら振り向きもせずに言った。
「随分と、遠回りして歩かされたみてェだなァ…。ククッ、ご苦労なこった」
聞き覚えのある、低く楽しそうな声に、銀時は途端に怠惰を隠そうともせず投げやりに言った。
「冷やかしはご遠慮願いたいんですけどー。こっちも真面目に働いてるんでェ」
「依頼主に対して口のきき方がなっちゃいねぇな。だから流行らねぇんじゃねぇか?」
「いえいえこれでも御贔屓にしてくださるお客様は結構いるんですよォ。だから悪ふざけとか暇潰しとかに使われるとこちらもちょっと困っちゃうわけでェ、おまえは何がしてぇんだよ。…高杉」
軽い言葉が低く沈む。銀時の言葉を最後に会話は途切れ、代わりに春風と共にまだ綻び始めたばかりの花弁がひらり、ひとひら舞い込んだ。紫煙が風に溶け込み、銀時の元まで届く。ゆっくりと、その人は振り向いた。笑っている。
「依頼内容は手紙に書いておいたろう? 旅行に行きてぇンだよ」
「てめぇの周りにゃ荷物持ちでも護衛でも、てめぇの為なら幾らでもなんでもやる奴らがゴロゴロいるだろうよ。なんでわざわざあんな大金払って俺呼んだって聞いてんだよ」
平素よりも低い声と、銀時の纏う刺々しい空気にも高杉は動じることなく煙管に口を付けると、細く吐いてゆるりと首を傾げた。
「怒るなよ。そんなにも巫山戯た真似はしてねーだろう。手紙だって、変に期待も誤解もさせねぇよう、わざわざ俺が直筆で、あんなに分かりやすく書いてやっただろうが」
それは差出人の事を言っているのだろう。高杉の名前こそ出さなかったが、あの東行というのは高杉が昔から時折使う名だった。銀時もそれを知っていたし、高杉は銀時がその名を知っていることを知っていた。
悪びれた様子もなく言う高杉に、銀時はしばらく睨みつけるようにして視線を注いでいたが、やがて深く息を吐くと肩の力を抜き、普段の無気力な視線を向けた。
「っつーか、今度会ったらぶった斬るって言わなかったっけ?」
「さぁ? 初耳だな」
薄らとぼけて見せる高杉を、銀時はしばらく見つめたが再び溜め息をついて視線を下げ、頭を無造作に掻くと依頼主に改めて問いかけた。
「旅行って、どの位の期間行くんだよ。言っておくけど、うち旅費なんて出せませんから」
「ほお。俺からの依頼、受けるのか?」
「もう前金使いこんじまって返せねーし。断れねーだろ」
だから、仕方がないのだという言葉はどうにも言い訳がましかった。発した銀時自身もそう思ったが、更に言い訳を重ねても仕方がないのでそこで切った。
「ふぅん」
高杉は今まで愉悦に満ちていた瞳に、探るような色を混ぜて銀時を見上げた。一瞬だけ感情の無くなった貌は空恐ろしいものがあったが、それはほんの一瞬で高杉は吊り上げた薄い唇に吸い口を乗せた。
「まぁ、そういうことにしといてやるよ」
カンと高い音が響く。高杉は手元にあった煙草盆の灰吹きの縁を叩き、灰を落とした。ゆるりと首を傾けて、嘲笑にも似た笑みを銀時に向けた。
「良かったなァ。丁度いい言い訳が在って」
「……」
含みのある言葉にも、銀時は何も言い返すことなど出来なかった。高杉が明確にしなかった、言外に突き付けられた言葉はご尤もであり、反論の余地など無いとそう思う。高杉は、彼は何一つ言葉にしなかったけれど、銀時の心はどうしようもなく卑屈になっていた。
高杉はもう銀時を見ていない。外を見ていた。銀時が最初に呼び出された、あの陰鬱な景色の果てだとは思えないほどに燦然としている世界は銀時とは逆方向にあるため、今高杉がどんな顔をしているのか、銀時からは見えない。別に、高杉がどんな感情をその顔に浮かべていようと銀時にとってもどうでもいいことだ。銀時も高杉から目を離し、彼の向こう側にあるものをその眼に映していた。
開かれた窓の向こうに広がる空は、雲ひとつない晴天だった。
二人は西へ向かっている。
「別に名乗った通り、東でも良かったんだけどなァ。まぁ、なんとなくだ」
気紛れな依頼主は目的地も言わず、ただ西へ向かうことだけを銀時に告げた。依頼を正式に受けたその晩は、移動することなくそのままその場に泊まった。宿に入り、最初に会った老婆が独りで切り盛りしているらしく、他に従業員らしき者の姿を見ることもなければ、宿泊客も見ることはなかった。
高杉と老婆のやり取りを見るに、高杉は数日前から此処を寝ぐらにしていたようだ。打ち解けた様子で、他愛のないことを談笑している。老婆はきっと攘夷志士達とはなんの関係もないのだろうと、銀時は老婆を見ながら考えていた。攘夷戦争時には志を同じくし、戦闘ではなく補助をしてくれた者達の世話になった。その者達は皆、見てくれこそ非戦闘員ではあったが、何処か同じ空気を持っていた。しかし、老婆にはそれがない。
このような場末で独り宿を営んでいる様を見るに、もしかしたら高杉が凶悪なテロリストで指名手配を受けていることすら知らないのかもしれなかった。
「あの婆さん、おまえらの知り合いか」
そんなことはないと思いつつ、尋ねてみる。高杉はほんの少し、意地の悪い笑みを浮かべながらも緩やかに首を振った。
「いや? ちょっと前にこっち来て川辺をぶらぶら歩いてたらあの婆さんが野菜を洗っててなァ。話したら宿やってるっつーから、泊まってただけだ。見てくれこそ良い感じに気味悪いが、なかなか良い処だろう?」
すっかり居着いている高杉は、まるで昔馴染みの宿であるかのように笑いながら言った。銀時はそれを否定しなかった。高杉の言うとおりであると、今回ばかりは全面的に彼の言葉を肯定する。
老婆との会話の中で、高杉は彼女が何故独りでこの宿をやっているのかも聞いていた。けれど、高杉はそれを銀時には告げなかった。その為、銀時はこの宿を継ぐはずだった老婆の息子が、攘夷戦争で戦死したことを知らずにいることとなった。
「またどうぞ」
別れ際、そう言って優しい微笑を向けてくれたこの老婆に、迷惑は掛けたくないものだと銀時は考えていた。高杉のような、こんなどうしようもない馬鹿のせいで、くだらぬ騒ぎに巻き込まれたりしませんように。
きっともう、二度と会うことはないだろう相手だけれど、彼女の幸福を祈らずにはいられなかった。高杉も同じ気持ちであったが、互いにそれを口に出すことはなかったため、感情を共有し合うこともなく、二人は宿を離れた。
荷物持ちも銀時が依頼された仕事の一つであったが、着の身着の儘に近い高杉の持ち物など殆ど存在せず、少々の手荷物があるだけだった。必要なものは現地で買えばいいと嘯く男は基本的にお坊ちゃんであり、自分とは住む世界が違うのだと改めて思い知る。きっと自分のように、大食いの子供とペットを抱え、汗水流して働けど毎月のやりくりに窮す経験など、この男には一生縁がないに違いない。
そんなことを考え、銀時は恨めしく思いながら前を歩く背中を見つめたが、高杉はそんな視線などまるで気にすることもなく、紫煙を燻らせながらのんびりとした歩調をとるだけであった。
電車に乗った。やはり高杉は目的地を言わない。ただ悪戯に笑いながら、一番高い切符を買ってくるようにと金を渡しながら銀時に告げる。改札を潜りながら、銀時は駅に設置されている監視カメラを一瞥した。普段なら気にも留めないそれが気になってしまう。銀時自身にはまるで疾しいことなどないのに、一緒に居る人間が人間だと、こっちまで何か悪いことをしているような気になってしまうのだろうか。
仮にも高杉は指名手配の身だ。笠を被っただけで特別変装もなにもしていない。見る者が見れば直ぐに認識されるだろう。しかし、前を進む高杉はカメラを気にする様子もなく、丁度ホームにやって来た電車に二人で乗り込んだ。
鈍行列車は一駅一駅停車し、酷く進みが遅い。それでも高杉は焦れることもなく、窓の外で流れて行く風景を見つめていた。四人掛けの座席で、通路側に座る銀時に高杉の顔は見えずその輪郭の線を見ることしか出来なかったが、ある時ふと気がついた。
まだ明るい為ぼんやりとだが、窓に高杉の顔が映っている。そこに映りこんだ表情は穏やかで柔らかかった。
(…そんな顔、してんじゃねぇよ…)
昔を思わせるような、一つ屋根の下で机を並べていた頃のような、そんな高杉の表情にどうしようもなく胸が苦しくなる。無意識に眉を寄せ、唇を噛みしめていた銀時は、高杉が振り向くよりも先に顔を背け通路へと視線を移した。そしてそのまま、電車に揺られ続け、いつしか眠っていた。
* * *
「オイ、オイ起きろ。降りるぞ」
揺り動かされ、頭を叩かれた痛みに銀時は目を覚ました。電車はまだ動いている。覚醒しきらない頭は無造作に視線を上げ、高杉と目が合って思わず目を見開いた。そんな銀時の反応にも高杉は気にした様子もなく、通路への障害物となっている銀時に早く起きて降りる準備をするように促した。窓の外では景色の流れる速度が緩やかになり、電車はホームへと入っていく。
完全に止まり、開いた扉から降りれば知らない世界が広がっていた。駅の様子や街並み自体はそう変わらないが、案内板に書かれている地名など、銀時は今まで知らなかった。後から降り、銀時を抜いて行った高杉の足は淀みない。迷うことなく進んでいく高杉の後をついて行きながら、銀時はその背中に問いかけた。
「此処、知ってんのか」
「いや? ただ窓から見えて、面白そうな街だなァと思ったから降りただけだ」
機嫌良く笑う高杉から目を離し、銀時は辺りを見回した。昨日も一昨日も、似たような街並みで途中下車をした。高杉の嗜好が表れている。自然と同じような街並みを選んでしまう気持ちも分からなくはないが、こうも同じような場所ばかりで飽きはしないのだろうか。そんなことを考えながら、銀時は何も言わなかった。
川べりの宿に入る。窓を開け放てば、さらさらと川の音が聞こえた。水面に光が反射して眩しい。窓の外を眺めながら、高杉は言う。
「こっちの方はもう、桜も終わるんだなァ」
言われて銀時も窓の外に目をやった。今、銀時が立っている位置からでは空と対岸の家々しか見えず、銀時は高杉の横に立って外を見下ろした。川に沿うようにして植わっている桜の木はもう新緑が入り混じり、淡い桃色が放つ儚さなど微塵も感じられなかった。
「綺麗じゃねぇな」
高杉が呟く。確かに、花弁ももう枯れ始め茶色くなっている。斑に色が混じりあってしまって、美醜どちらかと言えば悪相を晒している。しかしもう幾日、幾週もすれば花弁は木から離れ、生命力に満ちた若葉を一杯に身につけるだろう。
江戸を出た頃はまだ固い蕾が漸く綻び始めた頃だったので、南へと向かっているとはいえ、時の流れを感じる。ふと、万事屋に残してきた二人の事が気にかかり、連絡をしてみようかと思いついた。
もし何かあった時の為にすぐ連絡が付けられるように、銀時は旅に出る前にプリペイド式の携帯電話を購入した。今のところ、それは一度も使われていないからきっと二人とも息災にしていることだろう。だが、用がなければ連絡してはいけないというものでもあるまい。
そんなことをつらつらと考えていたら、名を呼ばれて銀時は反射的にそちらを向いた。
「銀時ィ」
手招きされる。銀時が躊躇いを見せれば高杉はそんな銀時の態度など想定済みだったようで、意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「依頼主の言うことは聞いておくもんだぜ」
身を屈めろと言葉にした高杉に、銀時は嫌そうな顔をしながらも渋々その身を屈めて上体を高杉に近づけた。
伸びた高杉の手に胸倉を掴まれる。引き寄せられて、唇が重なっていることを自覚したのは数瞬後のことだった。現状を認識して直ぐに銀時の頭によぎったのは、誰かに見られるのではないかと言う常識的な、けれどもありきたりで詰まらない考えだった。
川の音が聞こえる。ああそうだ、この窓の向こうにあるのは川だ。人目など、気にする必要もない。この際、対岸の家の住人のことは考えないことにする。
薄く開いていた唇から入ってきた不埒な舌を絡め合いながら、互いに目は閉じていない。近すぎて焦点も合いづらいけれど、いつの間にか胸倉を掴んでいた手は離れ、今度は頬に添えられ、いつしか銀時の目を覆い隠していた。唇が離れても、吐息の混じる距離で互いの目に映り込んだ自身の姿を見つめれば、銀時の瞳の中に居る隻眼は唇の端を吊り上げた。悪戯なその笑みの正体が掴めず、銀時がほんの少し訝しげに眉を寄せれば高杉は銀時から顔を逸らし、手にしていた何かを窓の外の川へと投げ捨てた。
銀時の目がそれを追う。空を舞うそれが何かを認識して、目を見開いた。携帯電話だ。まだ一度も使っていないそれは綺麗な弧を描いて、最終的に川へと沈んで行った。ぼちゃんと鈍い音がする。水しぶきが上がって、それを見て高杉は満足そうに笑った。
「てめっ、なにすんだ…!」
窓から身を乗り出してみても手など届くはずもないし、今から階段を駆け下り川の底に沈んだものを拾い上げてみてもきっともう壊れてしまっていて使えないだろう。非難じみた銀時の言葉に、高杉は悠然と銀時に目を向けた。弧を描いたままの唇が開く。
「この旅にあんなもんはいらねーんだよ」
誰とも連絡なんて取る必要などないし、他の誰のことも考える必要もない。悪びれた様子もなくそう言い捨てる高杉に、銀時の苛立ちが募る。それに高杉も気づいているであろうに、それでもなお態度を改めることもなく、更に挑発的に言い放った。
「俺ァ何も持っちゃいねぇ。刀とこの身一つだ。余計なモンなんざ、なんもねぇ」
高杉はそう言って袖を振った。ひらひらと揺れる布は確かに余計な重りなど入っていないことを証明していて、次いで合わせが開かれれば、只でさえざっくりと開いていた胸元が更に露わになり肌色が日の光に映えた。
「調べてみるか?」
安っぽい誘い文句だ。もっと他の言葉があるだろう。無視してしまっても良かったけれど、銀時は一つ、心の中で言い訳をした。自分は今、怒っているのだ。目の前にいるこの傍若無人な男が、携帯電話を投げ捨てて反省の色を見せやしないことに、とてもとても怒っているのだ。
誰に聞かせるでもない言い訳は口にすることもなく、銀時は笑みを浮かべる高杉を引き寄せて押し倒し、組み伏せて口づけた。先程よりももっと本能的な口づけを交わして合わせの隙間から手を差し入れて肌を撫で上げる。
窓が開け放たれたままであるのが視界の端に入った。けれど閉める気にもならない。先程唇を重ねあった時も考えたことだが、どうせこの窓の向こうには晴れ渡る青空と川しかないのだ。もしかしたら音や声が漏れてしまうかもしれないけれど、出歯亀は気にしないことにしよう。
どうせ明日にはもう此処を立っているのだ。旅の恥は掻き捨てだ。
教室の一番後ろの廊下側、いつもの定位置で刀を抱え襖に寄りかかりながら、銀時はぼんやりと外を見つめていた。今日はよく晴れていて、気持ちの良い陽気が庭に降り注いでいる。日向に出て寝ころんでいたらさぞかし気持ちがいいだろうと思いながら見ていると、不意に視界が翳った。目の前に、誰かいる。誰だろうと視線を向ける前に、銀時は頭に衝撃を受けた。
「いてっ」
そこまで強い衝撃ではなかったけれど、反射的に声が出た。視界を覆うのは本だ。薄い、柔らかい書物が遠のいて、その向こうから見知った顔が現れる。小生意気そうな少年の顔を、銀時は面倒くさそうに見上げた。
「んだよ、高杉」
「阿保面晒してぼけっとしてる暇があったら、本でも読んでその空っぽな頭に少しでも知識を詰め込んだらどうだよ」
そう言って、高杉は銀時を叩いた本を銀時に差し出してきた。ぶっきらぼうな態度ではあるが、高杉は親切のつもりだろう。しかしほとんど突き付けられているも同然の本を見て、銀時は露骨に顔をしかめた。
面倒、その一言に尽きる。文字など別に見たくもない。文字の羅列である本などもっての他だ。別に自分が阿保面を晒そうと、頭が空っぽであろうと、それの何が高杉に不利益を被らせるというのだろう。
だから断ろうとして、銀時は高杉の背後の存在に気づき、視線を移した。高杉もそれに気がついたらしい。振り向こうとして、頭に走った衝撃に声もなく蹲った。
「いっ…!」
「本は人を叩くものではなく読むものだぞ。そんなことも知らんのか貴様は」
痛みから立ち直れずにいる高杉を見下ろし、桂は悪びれることもなくそう言い放った。その手には竹刀が握られている。恰好も袴姿である。剣術の稽古でもしてきたのだろう。漸く少し回復したらしい高杉が、頭を押さえながら桂を睨みあげた。その眼にはうっすらと涙が滲んでいる。
「ヅラぁ、てめぇ竹刀で叩くこたぁねーだろう」
「仕方あるまい。偶々竹刀を手にしていたのだ」
そんなのは手放せばよかっただけだが、桂は堂々とそう言い放つ。高杉はしばらくそんな桂を鋭い視線を向けていたが、不意に桂から顔を逸らし、その矛先を銀時に向けた。そして低い声で吠えた。
「銀時ィ、てめぇヅラ叩けや。その抱きしめてるモンでヅラの頭ぶっ叩いてやれ」
「なんで俺が」
桂に危害を加えられたのは高杉であり、桂は銀時に何もしていない。だから自分が桂を叩く理由など今のところないのだが、高杉は再び桂をねめつけながら唸るように言った。
「叩く、叩かれるの矢印的にてめぇがヅラやればうまく循環すんだろ」
「やだよ」
そんな筋が通っているのか、いないのか分からない理由で桂を叩く気になどならない。それも、刀でなど殴ったら下手したら命に関わる。尚も拒絶する銀時に、高杉は舌打ちをして視線を二人から逸らした。どうやら機嫌を損ねたらしい。
そんな高杉の態度を気にすることなく、桂は銀時に向き直って言った。
「しかし、高杉の言う通りだぞ。おまえももう少し書を親しみ、先人達の知恵を学び身につけるべきだ」
自分が竹刀を振り下ろした時に、高杉が落とした本を、桂は拾い上げて銀時に差し出した。銀時が受け取らずにいると、膝を立てて座っている銀時の、その立てられている足と身体の間に本を捻じ込んできた。無理やり渡されたそれに眉を寄せ、唇を尖らせながら銀時はその本を見下ろした。
「本なんか読んだってしょうがねーし。口の立つ頭でっかちになってどうすんだよ。生きるために学ぶなら、実践あるのみだろ」
本を読んだって、屍を踏み越えて生き延びられるようになるわけではない。喉まででっかかったその言葉を、ぐっと飲み込んで結局銀時は口にしなかった。代わりに抱えていた本を抱き直す。この刀の重みなど、目の前の少年達に分かるはずもない。
しかし銀時のその反論は、桂と高杉の両者から集中砲火のような更なる反論を浴びることになった。
「銀時、それは違うぞ」
「戦略次第ではアリが象を倒せるんだよ。過去の歴史がそれを証明してらァ」
例えばこの戦では、あの戦ではと二人の口から矢継ぎ早に繰り出される具体例を、銀時はただ右から左へと聞き流す。そんな熱心に語られたところで、銀時の胸に湧き上がるのは、こいつら仲悪い癖に仲良いな、といったことくらいだった。
「聞いてんのか銀時ィ」
「聞いてねーよ」
反応の薄い銀時に気がついた高杉の言葉に、素直に返せばまた本で殴られた。高杉が自分で読む用の本だ。彼は二冊持ってきていたのだ。
「あっ、コラ高杉! だから本で人を殴るなと…」
手にしていた竹刀を、桂はもう手放している。騒がしい言い争いが取っ組み合いにまで発展しようとした時、その人は現れた。
「どうしました」
飛び込んできたその声に、三人の動きがぴたりと止まる。髪を掴み、頬を引っ張り、胸倉を掴んだ状態で硬直したのは一瞬で、桂と高杉は直ぐに相手を掴んでいた手を離し、簡単に身なりを整えた。銀時一人、引っ張られてくしゃくしゃに乱れた髪のまま唇を尖らせて刀を抱え直す。桂が松陽に言った。
「銀時に読書を勧めていたところです」
何時の話だよと銀時は思ったけれど、口には出さなかった。先程まで行われていたのはただの喧嘩に過ぎなかったが、始まりは其処だ。桂が其処まで遡って松陽に告げたので、銀時もそれに合わせて口を開いた。
「本なんて読んでも仕方ねーだろ。実際にやってみんのが一番だって」
言えば桂と高杉がまた二人で反論してくる。こんなときだけ二人がかりでくるなんて卑怯だとまた口喧嘩になり、再び乱闘へと発展しそうになったところで松陽から制止の声が掛かった。不満そうにしながらも桂と高杉の手が止まる。そのため銀時も握っていた拳を収めた。
静かになった場に、松陽の静かな声が響く。
「二人の言うことは、両方とも正しい。実際に行動してみることが、一番身に付きやすく、為になるのは確かです」
松陽の言葉に銀時が得意げな視線を二人に向けた。高杉が鋭い視線を返してくる。虎の威を借る気はないけれど、松陽という後ろ盾がある今、高杉に幾ら睨まれたところで痛くも痒くもなかった。
しかし松陽の言葉はそれで終わらず、尚も続いた。
「が、二人の言う通り、本を読むのは大切なこと。知識は合って邪魔になるものではありません。先人が身をもって残してくれた知恵、兵法を学び生かすことは実際に戦場に出たときに無駄にはならないでしょう」
今度は高杉が、胸を張って何処か見下すような視線を銀時に向けた。
それを受け、銀時は唇を尖らせて高杉を睨み返した。別に松陽の言葉が全て正しく、それだけがこの世の理であるとは思っていないけれど、なんとなく悔しい。二人の視線の攻防戦に加わらず、桂は松陽に質問を繰り出し、松陽はそれに丁寧に答えている。その言葉は静かな戦を繰り広げている二人の耳を素通りしていた。
軽く、しかし確かな衝撃が銀時と高杉の頭に走る。反射的に其処に手を宛てて、二人はその衝撃を二人にもたらした松陽を見上げた。二人の視線と、加えて桂が自分の方に意識を向けていることを確認して、松陽は静かに言った。
「今は知識を蓄えておくのがいい。しかし、百聞は一見に如かず。実際に目で見て、味わい、経験してみることが重要です。旅に出てみるのも良いでしょう。世界は広い。この街を出て、色々なものを見聞きすることはきっと貴方達の財産になる」
その時はきっと、その場に居た誰も彼も、近い未来であんな過酷な旅をすることになるなんて、夢にも思っていなかった。あんな砂と埃と、血と死の匂いのする風に吹かれ、命を削り、退却に退却を重ねながら国中を転戦していくことになるなんて。
この時の子供たちは弁当でも持って、皆で楽しむ旅路を思い描くのが精いっぱいで、今この時も雪崩れ込む異星人への抵抗で花よりも呆気なく命を散らしている人間がいることなど考えもしなかった。戦とはそれこそ書物の中のものであり、それがどんなものであるのかを、知る由もなかった。
ただ一人、この場に居た大人だけが薄らと、夢と希望に溢れた子供達にどんな未来があるのかを、思い描いていた。