※暴力
腹が痛くて目が覚めた。見上げると、薄笑いを浮かべた男が、自分の腹を踏みつけている。懸命に離そうとしたのだが、何故だか布団の中から腕が出せない。
すると苦しいか、と聞き慣れた声が言った。低く地を這うようだが、それでいて耳触りが良い。間違えなくアパートの隣室の幼馴染だった。ナツメ球のわずかな明かりで、かろうじて顔が分かった。
理由を尋ねる余裕はなかった。奴は人の腹を踏むだけに飽き足らず、その足を更に奥へぐりぐりとめり込ませたのだ。
「痛いか」
今度は、ぼそりと耳元で囁かれる。そんなこと、訊かれるまでもない。やめて欲しいという気持ちを込めて、唯一動かせる首を縦に大きく振った。
奴はそうか、と言った途端、首筋に噛みついた。やっと腹が解放されたのに、今度は皮膚の切れる感触に意識を飛ばすかと思った。
つい先日、一緒に旅行したばかりだったのだ。その位には、親しいつもりでいたのだが。
「なん、で」
どうにか痛みを堪えて、息も絶え絶えに尋ねると、急に奴の顔つきが変わった。眉根を寄せ、目つきが険しくなる。口元は微笑んだままだ。無理やり笑おうとしているみたいな表情。
暗がりで目が合えば、奴の唇は血に濡れて、幽かに光っていた。鉄の臭いが、鼻をついた。
「お前のせいだよ、分かるか」
てんで心当たりはないので、まだ痛くて力の入らない首を懸命に横に振る。
すると、そこに奴の冷たい手が伸びた。手つきが急に優しくなって、不気味だった。散々痛めつけておいて、怪我を気遣うような触れ方なのだ。そのまま無言でハンカチを押し当て丁寧に血を拭った。
「おやすみ」
拭き取ってから、いつも通りの口調で奴が言った。気が済んだようにみえたので、ほっとしたら身体の力が抜けて、すぐに寝てしまった。
翌朝、目が覚めた時にはもう幼馴染はいなくなっていた。まるで夢のようだった。だが首筋にはあの歯形が確かに残っている。頭を動かすとじくじくとそこが痛んだ。
理由を知るのは恐ろしかったが、改めて話を聞いた方が良さそうだと思った。休日だから、時間はあった。顔を洗ってすぐ、すっかりくたびれたジーンズを履き、そのままサンダルを突っかけ、隣のインターホンを押した。息を殺して待っていると、後ろから大家の年配の女性に声をかけられた。
「ここの方お知り合いですか?」
これから強盗でもするつもりなのか、とでも言わんばかりに彼女は訝しげに訊いた。幼馴染だと答えると、機関銃のように早口でまくしたてた。
「それなら、家賃払うように伝えてくれないかしら。期限は昨日までだったんだけど、直接声かけても電話してもでなくてね。今日仕方がないから鍵で開けようとしたんだけど、開かないのよ。何かあったんじゃないかって。今ちょうど警察呼ぼうかと思ってたの。でも出来ればあまり大ごとにしたくないわ。通報する前にもう一回声かけてほしいの」
「そうなんですか。妙だな。じゃあ、何かあったら取り敢えずご報告しますよ」
「お願いしますね」
そそくさと廊下の掃除に戻っていく彼女を尻目に、本当にあいつはどうしたのかと思った。とにかく真面目な性格で、間違っても期限に遅れるなんてことはなかったのだ。高校生の時も提出物を遅らせたことは一度もない。そういう奴だった。
しばらく待っても出てこないので、もう一度インターホンを押した。だが、反応はなかった。
今度はドアを叩いてみたが、やはり反応はなかった。こんな朝早くに外出しているとは思えなかった。まだ寝ているのかもしれない。それとも本当に何かあったのか。事件にまきこまれたのか、あるいは。
おれは裏から回って、窓を見上げた。灯りは点いていない。目を凝らすと、曇りガラスの向こうに朧げに縄か紐のようなものが見えた。
そこには、ちょうど人間ぐらいの大きさのものがぶら下がっていた。
急いで表に戻って、ドアに力いっぱい体当たりした。 飛び込むと、暗い部屋に力なく頭を垂れた男が縄一本で揺れていた。舌がだらしなくたれ下がり、目は虚ろで完全に光を失っている。念のため脈を確認したが、意味はなかった。
警察を呼んでから、大家は心底困惑している様子だった。自分の管理するアパートで、自殺者が出るなんて想像していなかっただろう。多くの人にとって事故物件なんてテレビの向こうの出来事だ。
遺書はなく、自殺の原因は判然としなかった。奴はきっと昨日のうちに決断していたのだ、と心苦しかった。夜のうちに事情を聞いておけばこんなことにはならなかったかもしれない。
奴は両親を亡くしていたし、親戚とも付き合いがなかったので、遺体は俺が引き取ることになった。なまじ幼馴染みだっただけに、このまま無縁仏にするのも忍びなかったのだ。霊安室で横たわる身体は白く蝋人形のようで、妙に現実味がなかった。
無駄を好まなかった男の、数少ない遺品を眺めていると、後ろで控えていた警察官が口を開いた。
「佐原さんの死亡推定時刻は、昨日の午前8時から午前10時だったんですがね。隣に住んでいてお気づきにならなかったんですか」
遺品の中には、俺と旅行した時の写真があった。
(了)