※ややグロい
一
私は平生それを猫と呼んでいました。漱石よろしく猫、と呼べば決まってにゃあ、と寄ってきました。猫はよく人見知りをしました。私以外の者には、いっこうに懐こうとしないのです。いやむしろ、私にすら懐いていなかったのかもしれません。私を主人と思っているのではなく、ただ気のおける使用人だと思っていたのかもしれません。それが猫たる者の性質なのでしょうか。生物に関してこと暗い私には実際のところは分からないのですが、そんな気がしています。
猫の関心ごとと言えば専ら食事にありつけるかどうか、その一点につきました。彼に支給されるのは、悪く言えば私の残飯でありました。近所のスーパーは、あまり独り身にやさしくありません。たいてい1人分というには少し多い分量の惣菜ができてしまいます。本に載っていた猫が口にしても平気だという食材を使い、それを与えていました。時々余ったパンなどを牛乳に浸してやると、猫はうまそうにそれを気のすむまでぴちゃぴちゃ舐めていました。
アパートの隣人は私が猫を飼い始めてから変わったと言いました。お前そんなに気の利くやつじゃなかったろう、と。それに対し私はただ一言そうですか、と答えました。彼はしばしば勝手に私の部屋に上がりこみました。その都度、気の弱い私は文句の1つも言えずただ2人分の茶を用意してそうですか、と答えるのです。そういうやり取りを猫は鳴きもせず黙って見つめていました。気づかぬうちにそれは恒のこととなっていました。猫はその隣人にも懐いていないようでした。彼がオイ、と呼びかけてもどこ吹く風でした。私は隣人に詫びました。彼はしょうがないなと苦笑するだけでした。何分相手は犬畜生ならぬ猫畜生でしたし、例の嫌いのことも彼はよく知っていたからです。
二
ある時から、猫が帰ってこなくなりました。初めはいつもの、どこぞの裸の大将のような放浪癖だと思ったのですが、3日も戻ってこないので、さすがに心配になりました。同時にいやな予感がしました。いつぞや聞いたことがあるのです。猫は己れの死期を悟ると、どこか主の知らないところで死のうとするらしいと。
歩いて15分ほど先の空き地の前で、猫はなぜか、口──と思しきところ──から泡を吹き、元の形が分からないぐらい無惨な姿で死んでいました。乾いた道路の上に、腐りかけの身体がぐったりと横たわっていました。馬鹿なやつだ、と思いました。大方、車の前に飛び出しでもしたのだ、と。しかし、妙だとも思いました。亡骸のそばに、なにか腐った肉きれのようなものが、缶詰とともに転がっていたのです。どうやらそれは猫の好物のようでした。
私は家に帰って、しばしぼんやりして、そして泣きました。さりとて、先ほどのことは胸の内のどこかで引っかかっていました。それから以前よりぼんやりすることが増えたので、そういう私を例の隣人はまた猫を飼えばいい、などとしばしば慰めてくれました。なるほど、そうなのでしょう。新たに猫を飼えば、その埋め合わせができるかもしれない。しかしそれはあの「猫」ではありません。あいつではないのです。隣人の知り合いのものだという上等な毛並みの猫の子は、確かに同じ黒猫なのに、「猫」とはまるで違っていました。予想以上に私は意気阻喪していました。私はいつまでもあの猫を恋しく思いました。お金を戴いている以上仕事には出ていましたが、休みの日はひたすら篭り、何かするとしても本を読むぐらいで、殆んど動きませんでした。食もだいぶ細りました。
「そんな調子じゃ痩せるぞ」
いくら慰めても塞ぎこんでいた私を見かねたのか、隣人は手ずから料理をこしらえ、以前にも増して私の家にちょくちょく顔を出すようになりました。隣人の料理の腕はなかなかのものでした。定食屋などやらせたら儲かるのではないか、と思われる程です。私はすっかり彼に甘えて料理をろくすっぽ作らなくなりました。終いには、洗濯や部屋の掃除といった身の回りの家事までしてもらうようになりました。
三
そんな時私は彼の部屋に珍しく招かれました。彼が用を足している隙に、私は純粋な好奇心から、机上の引き出しを開けました。それは3段から成り、2段目までは上から順に、文房具一式、便箋・封筒一式が揃えてありました。一番下の引き出しは、少し錆びた黄金色の缶からです。その隣にはラベルの文字が薄れて判別できない、農薬のような臭いがする何かの薬瓶が1つ入っていました。一通り確認した私はある仮説をたてました。隣人が猫を殺めたのではないか。私には心当りがありました。以前に住んでいた借家での話です。その時から人と進んで交流をしない種類の人間であったのですが、どういうわけか時々、ダイレクト・メールに混じって、端正な字で綴られた手紙を受け取ることがありました。今時珍しく万年筆か硝子ペン、それも古きよき没食子酸のインキで丁寧にしたためられた手紙です。数少ない友人たちの中に手紙を書く習慣のある者はいなかったので、誰から送られたのか見当がつきませんでした。切手も住所もなかったので、恐らく直接投函したのでしょう。内容は恋文でした。初めこそ、色恋沙汰にはまるで縁遠いこの私にもとうとう春が来たかと思いましたが、硬質の文体からしてどことなく女性ではない、という印象を受けました。差出人はいつも記されておらず、届くたびに薄気味悪く思っていました。というのも、恋文の内容は届くたびに、貴方の仕事場にいる女たちを排除したいだとか、自分の邪魔になる者は消したい、などと、常軌を逸したものになっていったからです。
このアパートに引っ越してからも手紙はちょくちょく届いていましたが、猫が行方不明になる前、「あれは貴方をただの使用人だと思っている。貴方に相応しくない。あの無礼な猫はいずれ私が殺しましょう」などと書かれた手紙が投函されていました。馬鹿げていると思いましたし、それまで手紙の内容が実行されたこともなかったのです。しかし、ただ一笑に付してしまうにはあまりにも不気味で、隣人にも相談していました。
今、引き出しに入っていた質のいい紙の便箋と封筒は、その手紙と全く同じものです。寒気がしました。黄金色の缶からの中には、案の定私に宛てた手紙が沢山入っていました。飛んで火にいる夏の虫、出す前に私の方から上がりこんだのですから、手紙が溜まっているのは当然といえばそうでしょう。三好有助様、三好有助様、三好有助様、三好有助様。ずらりと並んだ端正なその文字に私は身震いしました。
そして気がつけば背後に当の本人が立っていました。
「何だ、見たのか」
隣人の取り澄ました笑みを私は凝視することしかできませんでした。目を離すことができなかった、と言う方がより正確かもしれません。平生の暢気な男はそこにはいませんでした。満面の笑みなのに、他人をおびえさせる何かがありました。
「お前さ、他人ん家の引出しを勝手に漁っちゃ駄目だろうよ」
もはや逃げ場はどこにもありません。私は壁を背にして立っていましたし、唯一の出入り口は彼の逞しく大きな背によって塞がれていました。無駄なことだと知りながら必死に平静をよそおい、私は何ごともなかったかのように帰ろうとしましたが、彼は黙ってつるりとした白壁まで私を追い詰めました。壁のひやりとした感触がこれは夢ではないと告げていました。彼はそのまま私の顎を長い指でつかみ、顔を無理やりぐいと上げさせました。それから彼は私の眼鏡をそっと外し、私の目だまを舐りました。私は再び慄然とし、声も出ませんでした。そんな状態では、脱出の方法を思案することなど到底できませんでした。
そこから先の記憶はあまり定かではありません。確かなことは、彼が私の首もとに噛み痕を残したことです。それは今もじくじくと痛んでいます。
(了)