※ザップとレオがアジアのどこかを旅しています。前後の繋がりは一切考えていません
夕飯のエビのスープは驚くほど辛かった。レオナルドは夜のマーケットを歩きながら、熱っぽい空気にひりつく舌を晒した。
西の地平に太陽が消えたのはしばらく前。赤黒い残照も燃え尽きて、居並ぶ露店の軒先には照明が灯っている。オレンジ色の灯火をぼんやり眺めていると、足下で泥水が跳ね、ズボンの裾を汚した。未舗装の道は数時間前の雨でひどくぬかるんでいた。
賑やかな笑い声が聞こえた。声のした方に目を向けると、五人の中年男が薄汚れたビニールの屋根の下で酒を飲んでいた。その傍を腕を組んだ若い男女が通り過ぎていった。夜のマーケットは耳慣れない言葉で満ちていた。どこからか聞こえる夢の中を揺蕩うような旋律も、レオナルドの知らないものだった。あらゆる音がまるで不思議な呪文のように響いてレオナルドを包んでいた。レオナルドは不意に心細くなった。宵闇に浮かび上がる異国の雑踏はまるで幻のようで、一人でいることが怖くなったのだ。もう疲れたし、早く宿に帰って寝てしまおう。そう思って足を早めた。
「おいレオ」
知らない響きの中で、よく知る声がレオナルドを呼んだ。思わず足を止める。ザップは人混みから頭ひとつ抜け出るようにして立ち、レオナルドを見ていた。瓶ビールを片手に不機嫌そうな表情を浮かべている。ザップは午前中のうちに「オンナ捕まえてくる」と言ってレオナルドの前から姿を消していた。しかし、あの顔つきではどうやらナンパは失敗に終わったらしい。思わず口角が上がる。ザップはグリーンカレーの屋台の前にいた。レオナルドは雑踏をかき分けザップに駆け寄った。
「ったく、何してんだお前は。あんなゴチャゴチャしたところにいたから見つけるのに苦労しただろーが、チビ」
開口一番、ザップはレオナルドを罵倒する。しかしこの程度の理不尽、レオナルドにとってはかわいいものだ。ニヤリと笑って言葉を返す。
「チビで悪かったですね。それよりザップさんの方こそ東洋美女とのデートはどうなったんですか」
もともとぶすくれていたザップが更に顔をしかめる。その変化にレオナルドは内心「勝った」とガッツポーズした。ザップはそっぽを向いて「フられたんだよ」と小さく呟いた。
「え、なんですって」
「だ、か、ら。フられたっつってんだろうが」
ザップはレオナルドに背を向け、大股で歩き出す。その背中から「やっぱ言葉の壁はデカかったか」と恨みがましげな声が聞こえた。レオナルドは慌ててザップを追った。
「ちょっと、どこ行くんですか」
「決まってるだろ、飲むんだよ。陰毛頭とサシ飲みなんて笑い話にもならねえが今日の所は勘弁してやる」
「明日の朝イチの列車に乗らなきゃいけないんですよ。アンタ絶対べろべろになるまで飲むのでしょ。今夜は我慢してください」
「やなこった」
腕を掴んで踏ん張ってみたがまるで話にならない。そうしてレオナルドはザップに引きずられるまま夜の街へ飲み込まれていった。
それから数時間後、レオナルドは泥酔したザップに肩を貸し、安宿の階段を上っていた。
ザップの膝が階段にぶつかり鈍い音を立てた。身長の違いから、レオナルドはどうしてもザップの足を引きずって歩く形になってしまう。きっと今頃ズボンの下の膝や脛は痣だらけになっているはずだ。しかし、回らない呂律で女の名前を呼ぶのを聞いてしまっては同情する気も起こらない。それよりも足元のギイギイと軋む階段を踏み抜かないかの方が心配だった。
首筋を汗が流れ落ちる。人混みの中をザップに付き合って延々と歩き回り、レオナルドはすっかり汗だくだった。肌に服がはりついて不快感を覚えた。夜が更けてもあまり暑さがやわらがないことに加えて、湿度の高さも原因の一つだった。
「あー、もう。疲れた」
どうにか宿泊している部屋まで辿り着き、ザップをベッドに放り投げる。レオナルドは脱力して埃っぽい床にへたりこんだ。
「ザップさん起きてますか」
呼びかけてみるも返事はない。どうやら眠ってしまったらしい。
レオナルドがシャワーを浴びて戻ってきてもザップはベッドに横たわったままだった。このままではレオナルドの寝る場所がない。慢性的に金欠の二人はこの安宿でもシングルルームしか借りることが出来なかったので、一つきりのベッドを日替わりで使っていた。今日はレオナルドがベッドを使う日の筈だったが、このままでは床で寝ることになるだろう。どうしたものかと思案していると、薄い天井の向こうから雨の降る音が聞こえてきた。
「仕方ないなあ」
レオナルドは間抜け面を晒すザップの身体を転がして端に寄せると、空いた隙間に潜り込んだ。濃厚な酒の匂いが漂ってくる。おまけにシーツは砂でざらざらしていた。スプリングのへたったマットレスと併せ、お世辞にも寝心地が良いとはいえなかった。
「おやすみなさい」
携帯電話のアラームを早朝にセットし、目を閉じる。部屋の隅に置いたバケツから小さく水の滴る音が聞こえた。