ぬるい風が頬を撫でて、白い花びらが目の前を過ぎていく。
「ん、どうかしたかい」
「スティーブンさん。これ。この花びら、どこから来たんでしょう」
数歩先にいた細長い姿が立ち止まって振り返る。その肩越しの景色は白い霧に覆われてぼやけている。
足元に視線を向けてみる。地面はアスファルトとコンクリで固められ、舗装材の隙間から生えているのは灰色がかったみすぼらしい雑草ばかりだ。花と呼べるようなかわいらしい植物はどこにも見当たらない。
どこからともなく飛んできた花びらはレオナルドの服の袖に着地点を見付けたようだった。後戻りしてきたスティーブンは袖口に引っ掛かったそれを見て「なんだ、桜じゃないか」と薄っすら笑みを浮かべた。
「サクラってあの?」
「ああ、その桜だ。かつてのニューヨークと同じように、HLでも桜の見られる場所があるんだ」
「でもスティーブンさん、桜ってたしか春に咲く筈でしょう。どうしてこんな時期に」
レオナルドが摘み上げようとすると花びらは指の間をすり抜けコンクリ敷きの歩道へ落ちていった。
「ここはHLだよ、レオナルド」
スティーブンの顔に青白い影のようなものがよぎり、レオナルドは思わず目をこらす。しかし青白い何かは既に消えて、そこにはいつもと変わらない、古傷を晒したライブラの副官の微笑があるばかりだった。
「九月に桜が咲くこともあるさ。この街では人間が理解できる事よりそうでない事の方が余程多い」
スティーブンが視線を逸らしてし、会話がブツリと途切れる。レオナルドが何を言うべきか思考を巡らせていると男の方が先に「ところで」と明るい声を出した。
「いい加減どこかでランチにしないか。朝から歩き通しで腹が減った」
「クラウスさんからこの辺に美味しい中華の店があるって聞きましたよ」
「ああ、あの店か。確かに料理の味は良かったが、残念ながらもうない」
そう言って歩き出したスティーブンを追っていくと、建物が消えて更地と化した区画に辿りついた。事情を尋ねると「個人所有の空間転移装置が暴走して辺り一帯が異次元へ飛ばされた」とのことだった。「特にフカヒレスープが絶品だった」と悲しげに呟く横顔を見てレオナルドは件の中華料理屋もその事故に巻き込まれたのだと悟る。
気まずい空気が流れていた。とにかくこの沈んだ雰囲気を打開する術はないかと必死に辺りを見回す。
「あ」
人間とそうでない者が入り混じる雑踏の向こうに見知った店の看板が目に入る。レオナルドは背後で感傷的なオーラを醸し出す上司の方を振り返った。
「あの、スティーブンさん」
霧の向こうから吹いた風が枝を揺らし、無数の花びらが視界を覆い尽くす。花吹雪が収まるとそこには多くの花びらを散らしながら尚も咲き誇る大木の姿があった。
「ほんとに咲いてる……」
「嘘をついてもどうしようもないだろう。それと、サンドイッチは冷めないうちに食べた方が美味いと思うぞ」
スティーブンはそう言ってテイクアウトしたローストチキンのサンドイッチを齧る。その横でレオナルドは紙袋を抱え、じっと目の前の光景を見つめた。
幹の太さに反して末端の枝は容易く手折れそうなほど華奢だった。そこに開いた花もまた、少しの風で花びらを散らしてしまう。試しに枝に手をかけ揺すってみると一斉に散った花びらが顔にはりついて息が出来なくなった。
「HLにはニューヨーク時代の桜の見られる公園がここともう一箇所だけ残っていて、昔を懐かしむことが趣味の人間はニュースで桜の開花を知るとこぞって花見にやって来る」
スティーブンがぐるりと視線を巡らせる。公園内に設置された全てのベンチに人が座り、何をするでもなくただ桜を眺めていた。一方でレオナルドによって半ばむりやりこの公園に連れて来られたスティーブンはあまり長居する気はないらしく、サンドイッチの包装紙を捨てる屑籠を探しているようだった。
「なあ、レオナルド。東洋の言葉にこういうのがあるんだ。『花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ』ってね。どうせ散るんだからさっさと見切りを付けろってことさ」
グシャッと包装紙をひねり潰したスティーブンの視線の先には金属製の屑籠があった。小さな女の子が父親と思しき男に抱き上げられ、丁度スカートに集めた花びらを捨てているところだった。
レオナルドは屑籠へ向かって大股で歩くスーツの背中を眺めた。
「さよならだけが人生、かあ……」
スティーブンに教えてくれた言葉を繰り返してみるが、「さよならだけが人生だ」と割り切る感覚がレオナルドにはいまいち理解できない。
さよなら或いは別れと聞いて思い出すのはあのときのことだ。この霧烟る街を対岸から眺めた日、様々な事柄が手の届かない遠くへ消え、レオナルド自身もずたずたに引き裂かれるような思いをした。
それでも再びこの街へやって来たレオナルドには新たな出会いがあった。新たに出会った人はレオナルドが失った自分自身にもう一度引き合わせてくれた。それからの騒がしい日々で得る物も多くあった。
紙屑を放り、スティーブンがくるりと振り返る。今しがた悟ったようなことを言っていたこの男も、手酷く傷付けられて血みどろになりながら希望を手放そうとしなかったことを知っている。
「何ニヤニヤしてるんだ。気色悪いぞ」
こちらへ戻ってきたスティーブンがスマートフォン片手に怪訝そうな顔をしていた。
「この桜が散った後、次に咲くのはいつなんだろうと思って」
「この街で先のことなんて考えるだけ無駄だな。それよりザップが今居そうな場所を考えてくれないか。このままだと人命に関わることになりかねない」
スティーブンがスマートフォンを差し出すと、スピーカー越しに複数の女の怒声とすさまじい破壊音、それからザップと思しき男の悲鳴が聞こえてきた。
「うわ、さすがザップさん」
「どう考えても身から出た錆だな。しかし貴重な戦力に痴情のもつれ如きで死なれるのは困る」
スティーブンは顔を顰めるとタクシーを拾うため大通りに向かって歩き出す。男のジャケットの裾から舞い落ちる花びらを見ながらレオナルドはアボカドのサンドイッチを取り出した。