隣を歩くマスターがとても上機嫌なのを感じて、メブキジカの心も弾んでいた。その足取りは、マスターの歩幅に合わせつつも軽快だ。
「びっくりしたね」
メブキジカに同意を得るように語り掛けるトウコは、しかしにこにこと笑顔だ。視線の先には、一枚の画用紙。そこに水彩の淡いタッチで絵が描き込まれていた。
背景は、抜けるような高い空に、赤に黄にと色づいた木々、そしてそれを映す湖。中心に描かれているのは、湖を臨む一匹のポケモンとその隣に立つ一人の少女の姿──つまり、メブキジカとトウコだった。
旅の途中、観光で湖に立ち寄ったトウコは、旅の絵描きを名乗る人物にぜひ絵のモデルになってくれと頼まれ、それを了承した御礼として完成品の絵を受け取ったのだ。
「モデルって、メブキジカのことだと思ったからオッケーしたんだけどな」
まさか私も一緒だったなんて、とトウコは照れくさそうに笑う。
メブキジカは絵を覗き込む。今はにかんでいるトウコとは打って変わり、そこに描かれたトウコの横顔は凛としていて、背筋をぴしゃんと伸ばしていた。
「実物より良く描いてもらえるのは嬉しいけど、ちょっと美化しすぎじゃないかなあ」
私、こんな姿勢よくないし、多分もっとぼーっとした顔してたし、とトウコは誰にともなく言い訳する。つまり彼女は照れているのだとメブキジカにはわかった。
「ああ、でも」
不意にトウコが数歩メブキジカの先を行き、くるりと振り返った。立ちはだかったマスターに、メブキジカは足を止める。
トウコは画用紙とメブキジカに視線を行き来させ、うんと頷いた。
「あなたのことは、この上なく正しく描いてくれたよね」
普段は野生のポケモンばかり描いているのだと絵描きは言っていた。トウコにはその理由がよくわかった。彼の描いたメブキジカは、どこまでも美しかった。立派な角の枝ぶり、艶やかな体毛、しなやかな筋肉、そして深い眼差し。水彩画特有のタッチは、トウコに初めてメブキジカに出会った時のことを呼び起こさせた。
その時、季節は春だった。冬を乗り越えた枝に美しい薄紅の花を咲かせ、凛とした様子でトウコの前に飛び出してきたメブキジカ。その姿を一目見て、仲間になることを乞わずにはいられなかった。そんなトウコにメブキジカは、自身の角から落とした花を彼女の豊かな髪に挿して応えたのだ。
「あの人は、ポケモンの美しさが好きなんだね」
魅せられた者のひとり、トウコはうっそりとため息をついた。
メブキジカはそんなトウコの横に回りこみ、もう一度画用紙を覗き込んだ。メブキジカの隣に並ぶトウコの横顔が描かれている。そして現実のトウコを見る。
メブキジカにとって、トウコはいつもやさしく微笑んでいる人だ。時にかわいらしく、時に照れくさそうに、たまには悲しみを堪えて、笑顔を絶やさない人だ。だから絵を見たときは、凛として済ました表情のトウコに違和感を覚えた。それはメブキジカの知っているトウコではなかった。これはトウコではないと思った。しかし、今のメブキジカにはなんとなく理解できた。
(目が、同じ)
画用紙のトウコの目には、空とも湖とも違う青が流し込まれていた。その深さは、はじめて相見えた少女がまっすぐに自分を貫いたものと同じだった。キラキラとして、命に満ちていた。あの輝きは、きっと笑顔で細められた瞳では伝わらない。見開かれて、初めてあらわになる。
そのことに気付いて見つめなおせば、この絵は間違いなくメブキジカのマスターだった。ふっくらとした唇も、細い肩も、やわらかな髪先も、その全てがメブキジカの愛する少女の姿だった。
メブキジカは、そっと鼻先でトウコの唇に触れた。どうしたの、とトウコが不思議そうに笑う。
彼女が自分を美しいと言ったのと同じだけ自分も彼女を美しいと思っているのだと伝える術があればいいのに、とメブキジカは願った。