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つん、と鼻を突くにおいがした。アレが来る前の特有のにおい。昔からトウコにそわそわと空を見上げさせたにおい。
もちろん、トウコが気付く前からパートナーはずっとそわそわしっぱなしだった。彼の方がずっとそういうことには敏感だからしかたない。
だから、トウコは笑って立ち上がったのだ。
「でかけようか?」
しとしと雨が降り注ぐ。トウコは手に持った雨傘をくるりと一回転させ、前を歩く背中に微笑みかけた。
傘など差さず平気で進むその体はすっかり雨に濡れ、曇り空の下つやつやと光を反射している。ケロケロと陽気な鳴き声が雨音に支配された世界に響く。
道端の草が揺れ、濡れた葉を体に張り付かせたポケモンがひょこりと顔を出した。あちらでも、こちらでも。トウコにとっては親しみのある水タイプのポケモンが次々顔を出してくる。トウコのパートナーの鳴き声に呼び寄せられたに違いない。
ケロケロ、ケロケロ。
やがて彼らまで鳴きはじめ、静かな雨の独奏は、いつのまにか大合唱へと変わっていた。トウコは心地よいそれに耳を澄ます。
「ニョロトノ?」
ふと気付けば、トウコの隣まで歩み寄ってきたパートナーがトウコを見上げていた。
長い付き合いだ。彼が何を言いたいのか察したトウコは、笑って手を差し出した。ぎゅ、と指先を握り返される。
手を繋いで、二人は歩き出した。
ケロケロと鳴き続ける合唱を楽しみながら、トウコは傘を軽く傾けて空を見上げる。時は正午過ぎだが、空には小雨を降らせている雲が立ち込めて見渡す限りの灰色だ。
昔からトウコは雨の日が好きだった。心をおだやかにさせる静かな雨音も、眠気を誘うポケモンたちの合唱も、それを予告する湿った土のにおいも。
「いいお天気だねえ」
しみじみと呟く。
それに同意するように、手を繋いだパートナーはケロケロと軽やかな笑い声をあげた。
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綺麗に磨かれて手入れが行き届いているのだろう、つやりとした球面。赤と白の目に鮮やかな配色に、しかしトウコの視界はじわりと滲んだ。
かの人の定位置に収められたボール。それがトウコの手に触れることはない。ありえない。 アレは他人のポケモン。それはわかっているのに。だのに。
トウコがゆがむ視界をごまかそうとうつむいた、その時。
ふわり、頬を熱が撫でた。
トウコは思わず瞬いて視界がクリアになり、あれと自身の顔を両の手で包み込む。
ガタン、ガタンと規則正しい振動が響くここはトレインの中。バトルを終えて降りる駅を待つだけの今、トウコの髪を揺らす風も、ポケモンが吐きかける熱もあるはずがない。
向かいに腰掛ける地下の住人にどうか致しましたかと問われ、慌てて首を横に振る。
気のせい。そう思い込もうとして、しかし頬を撫でた熱の残滓は確かに存在していた。トウコの視線は再び目の前の人の所有物に吸い込まれる。
美しい球面。この距離からでは、決してその中を見通せるはずがないのに。
ふわり。ああ、また。
熱が、今度は鼻先を掠めた。気のせいなんかじゃない。
トウコの視界に蛍光灯の光がにじむ。
(ずるい)
トウコはうつむきたくて、しかし視線を逸らすこともできず、目頭が熱くなるのを必死でこらえた。
電車の端から端、ほんの4mちょっと。でも、永遠に届かない距離。触れ合うことはおろか、見詰め合うことすら満足にできない。それが自分たちの距離。想いを確かめ合ったことすらない。それでも、確かにトウコは感じた。自分に触れた熱を。ソレが、自分をまっすぐ見つめているのを。
( 手を伸ばすことが、許されるなら)
トウコは目を閉じる。
(うつくしい炎を灯したキミに、触れることができるなら)
願った。何度も、何度も願った。願ってかなうなら、トウコは地面に這い蹲ることすらいとわなかっただろう。
だのに、目を開いた後の世界はどうしようもないくらい現実で。
慣性の力を受けてトウコの体が傾ぐ。それはトレインが停車した時の感覚だと知っていた。アナウンスとともにトレインのドアが開く。途端に流れ込んでくる駅の喧騒がトウコの腰を浮かせる。
またのご乗車を、とかけられた言葉になんと返したのかはよく覚えていない。
ただ、トレインを降りるトウコの背をやさしく、しかし確かに押した熱があることをトウコだけが知っていた。それだけが、すべてだった。
駅のホーム。トレーナーや鉄道員はそこらにいるのにトウコはどうしようもなく独りで。熱のカケラを宿す自身を抱きしめて、ただ嘆息することしかできなかった。
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隣を歩くマスターがとても上機嫌なのを感じて、メブキジカの心も弾んでいた。その足取りは、マスターの歩幅に合わせつつも軽快だ。
「びっくりしたね」
メブキジカに同意を得るように語り掛けるトウコは、しかしにこにこと笑顔だ。視線の先には、一枚の画用紙。そこに水彩の淡いタッチで絵が描き込まれていた。
背景は、抜けるような高い空に、赤に黄にと色づいた木々、そしてそれを映す湖。中心に描かれているのは、湖を臨む一匹のポケモンとその隣に立つ一人の少女の姿──つまり、メブキジカとトウコだった。
旅の途中、観光で湖に立ち寄ったトウコは、旅の絵描きを名乗る人物にぜひ絵のモデルになってくれと頼まれ、それを了承した御礼として完成品の絵を受け取ったのだ。
「モデルって、メブキジカのことだと思ったからオッケーしたんだけどな」
まさか私も一緒だったなんて、とトウコは照れくさそうに笑う。
メブキジカは絵を覗き込む。今はにかんでいるトウコとは打って変わり、そこに描かれたトウコの横顔は凛としていて、背筋をぴしゃんと伸ばしていた。
「実物より良く描いてもらえるのは嬉しいけど、ちょっと美化しすぎじゃないかなあ」
私、こんな姿勢よくないし、多分もっとぼーっとした顔してたし、とトウコは誰にともなく言い訳する。つまり彼女は照れているのだとメブキジカにはわかった。
「ああ、でも」
不意にトウコが数歩メブキジカの先を行き、くるりと振り返った。立ちはだかったマスターに、メブキジカは足を止める。
トウコは画用紙とメブキジカに視線を行き来させ、うんと頷いた。
「あなたのことは、この上なく正しく描いてくれたよね」
普段は野生のポケモンばかり描いているのだと絵描きは言っていた。トウコにはその理由がよくわかった。彼の描いたメブキジカは、どこまでも美しかった。立派な角の枝ぶり、艶やかな体毛、しなやかな筋肉、そして深い眼差し。水彩画特有のタッチは、トウコに初めてメブキジカに出会った時のことを呼び起こさせた。
その時、季節は春だった。冬を乗り越えた枝に美しい薄紅の花を咲かせ、凛とした様子でトウコの前に飛び出してきたメブキジカ。その姿を一目見て、仲間になることを乞わずにはいられなかった。そんなトウコにメブキジカは、自身の角から落とした花を彼女の豊かな髪に挿して応えたのだ。
「あの人は、ポケモンの美しさが好きなんだね」
魅せられた者のひとり、トウコはうっそりとため息をついた。
メブキジカはそんなトウコの横に回りこみ、もう一度画用紙を覗き込んだ。メブキジカの隣に並ぶトウコの横顔が描かれている。そして現実のトウコを見る。
メブキジカにとって、トウコはいつもやさしく微笑んでいる人だ。時にかわいらしく、時に照れくさそうに、たまには悲しみを堪えて、笑顔を絶やさない人だ。だから絵を見たときは、凛として済ました表情のトウコに違和感を覚えた。それはメブキジカの知っているトウコではなかった。これはトウコではないと思った。しかし、今のメブキジカにはなんとなく理解できた。
(目が、同じ)
画用紙のトウコの目には、空とも湖とも違う青が流し込まれていた。その深さは、はじめて相見えた少女がまっすぐに自分を貫いたものと同じだった。キラキラとして、命に満ちていた。あの輝きは、きっと笑顔で細められた瞳では伝わらない。見開かれて、初めてあらわになる。
そのことに気付いて見つめなおせば、この絵は間違いなくメブキジカのマスターだった。ふっくらとした唇も、細い肩も、やわらかな髪先も、その全てがメブキジカの愛する少女の姿だった。
メブキジカは、そっと鼻先でトウコの唇に触れた。どうしたの、とトウコが不思議そうに笑う。
彼女が自分を美しいと言ったのと同じだけ自分も彼女を美しいと思っているのだと伝える術があればいいのに、とメブキジカは願った。
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トウコは、毎日ポケモンたちの身体測定を行っている。科学の力はすごいもので、身長体重ていどの情報ならポケモン図鑑を向けるだけで測定できてしまうから手間にはならない。卵から孵ったばかりの子がすくすく育っていく様子が数字としてはっきりわかるのは楽しいし、何よりポケモンの健康管理になって体調不良の子にもすぐ気付けると旅の途中でポケモンブリーダーの人に教えてもらったからだ。
『ハッサム、はさみポケモン。タイプ、むし・はがね』
ポケモン図鑑がトウコの手持ちの情報を読み上げる。
「ハッサムって言うのね」
トウコは、戸惑うように自身のはさみを見つめていたハッサムに手を重ねた。
「進化おめでとう、ハッサム!」
主に満面の笑みで祝福され、ハッサムは慣れないはさみで鼻先をかく。
「あら?」
トウコは首を傾げると、背伸びしてハッサムと視線を合わせた。
「ストライクだったときは、同じくらいの身長だったけど……」
言われて、ハッサムは主の顔が以前よりずっと下にあることに気付く。
「大きくなったね、ハッサム!」
進化ってすごい!とトウコは興奮しきりだ。
トウコはポケモン図鑑でハッサムの現在の高さ・体重を読み取ると、手持ちのポケモンたちについて記録しているノートにメモをした。ストライクがハッサムに進化したことをきちんと書き添える。
「重さも倍以上になってる!」
はがねタイプだからかな、とトウコは興味津々の目でハッサムを見つめる。ハッサムは、自分が重くなっている気がしなかったので首を傾げて見つめ返した。
(重くなってる、というよりは……)
ハッサムはようやく慣れてきたはさみをカチカチと言わせながら、思った。
(逆に、軽くなったみたいだ)
胸が、とても軽い。ふわふわする。進化して翅は小さくなってしまったけど、これを震わせてどこまでも飛んでいけそうだ。主と一緒なら。
そんな他愛ないことを思いながら、ハッサムは軽く身をかがめた。ハッサムとトウコの視線が、丁度同じくらいの高さになる。トウコは笑ってハッサムの頭に腕を伸ばした。
「進化おめでとうね、ハッサム!」
再度の祝福の言葉とともに、抱きしめられる。
硬い外殻の表面を滑る主のやわらかな肌が、とても優しかった。
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むかし、むかし。わたしがまだ"進化"というものを知らないいたいけな蝋燭だった頃、わたしはよくマスターの腕に抱えられていた。他の仲間たちはわたしよりずっと大きくマスターが抱え上げるには重すぎたので、そこは長らくわたしだけの特等席だった。
ひとつ進化して長い腕を手に入れてからは、わたしの方がマスターに抱きついた。体が大きくなったわたしは体重も増えてマスターに全体重を預けることは難しかったが、宙に浮くことを覚えたので加減してじゃれ付きマスターの腕にぶら下がることができた。そんなわたしを、マスターは「あまえたさんね」と抱きしめてくれた。
ふたつめの進化で、わたしの手に火が灯った。「きれいね」とマスターは笑ったが、わたしはゆううつだった。こんな腕では、マスターに触れることができない。わたしの中で燃えている炎は熱くないとマスターは言うが、ヒトの誰かが言うことには、わたしの炎はヒトの魂を燃やしてしまうらしい。マスターが燃えてしまったら、きっとわたしには何も残らない。マスターがきれいと褒めてくれた灯りも消えて、床に落ちて朽ちてしまうだろう。
「最近は、あまえたさんを卒業したのね」
少し離れた位置にいたわたしの顔を覗き込んで、マスターは瞬いた。
ちりちりと、火がものを焦がす音がする。わたしの炎ではない、わたしの炎は音もなくすべてを燃やし尽くすから。これは、マスターの音だ。
マスターの瞳にわたしが映りこんでいる。その奥で、青い炎が燃えていた。マスターもわたしとおそろいで炎を持っているようだ。わたしの炎がヒトの命を燃やしているのなら、マスターの炎はどうやって燃えているのだろう。
「シャンデラ?」
ちりり、音がする。
ああ、マスター。まぶたを閉じて、はやくその火を消してください。あなたの命が燃え尽きてしまう、その前に。
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※ @quitheryne の中の人が人様の発想を猿真似した結果です。
★お相手ポケモンのリクエスト募集中です。
・特に指定がなければ友愛っぽい内容になります。
・ポケモンの性別やトウコさんの性格などまでシチュ指定可能ですが、ご期待に添える可能性は低いです。
・XYのポケモンには対応していません。(ごめんね!)