u0
日の光が届かない場所で、人間ににじり寄ってくる影。それは魑魅か魍魎か、はたまた狐狗狸(コックリ)の類だろうか。残念ながら、少女にそんな難しいことはわからない。
ただ確信を持っているのは、形ない魂だけの存在になってしまう死後の世界ならいざ知らず、生者はびこる現世においては、生きて肉体を持っていることが一番強いということだ。
それは少女の自論だった。
存在もあやふやな揺らぎに過ぎないモヤや、光を嫌って物陰にひしめく影ども。
少女は、物心ついた時からそれらを見ることができた。
それらは、生きている人間にまとわり付くことはできても、その動きを妨げることはできない。
少女は、経験からそのことをよく知っていた。そして、血肉を持たないというのは、所詮その程度のことなのだと学んだ。
少女は、肉の入れ物を持って確かに存在するものが、この世で一番強いのだと信じていた。
uX
苦しみの根源は去った。永遠に。
もはや、彼らを縛るものはない。たとえば再び人間を信じてまつろうも、それともすべてを忘れて本霊に還るも、はたまた屈辱をはらすために祟りに身を堕とすことすら自由だ。
しかし、誰一人としてそれを喜ぶ者はおらず、新しい道を選択する気にもなれない。屋敷は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
ほんの少し前まで(それが数日だったか数週間だったかなんて彼らは数えていなかったが)この屋敷には審神者がいた。
この屋敷は本丸と呼ばれる施設で、審神者によって統括されていた。
刀剣男士である彼らが所属するこの本丸は、世間にその存在を知られ根絶を叫ばれるようになったブラック本丸、というものだった。
被害者である彼ら自身は、ブラック本丸という言葉を知らない。隔絶された地で虐げられてきたからだ。
そして、ブラック本丸の定義とやらは、今ここで語る意味を持たない。グレーとブラックの判定は時に難しい。素人が口を挟んでも炎上するのが関の山だ。いつの世も、自分が正しいという正義感が戦争を引き起こす。
重要なのは、彼らにとっての審神者は、自身の欲望を満たすためならなんだってする人非人だったということ。そして、ここの審神者は、とてつもない嗜虐趣味と征服願望を持つ男だったということだ。
かつて彼らの審神者だった男は、無茶な出陣や刀剣破壊などはしなかった。戦績という数字の上では、きわめて優良な本丸であると認識されることも少なくなかった。
だからこそ、『こと』が起きるまで、政府はこのブラック本丸の実態に気づくことができなかったのだ。
男は嗜虐心の塊だった。
折れないぎりぎりのラインを見定め、傷ついた刀剣男士たちを放置した。そして、時に傷をえぐるように蹴りつけ、うめく姿を楽しんだ。手入れを施すのは、再び傷つけるためだった。
精神的にも刀剣男士たちを虐げるため、彼らの来歴すら事細かに調べ上げた。男は、審神者に抜擢されなければ、おそらく詐欺師にでもなっていたかもしれない。彼は、それくらい言葉巧みに刀剣男士たちを傷つけ、心を叩きのめした。
それが一番効果的だと判断すれば、そんな嗜好など持っていないくせに、同性の姿をした者を組み伏せ蹂躙することすら悦んでやった。その行為は、男の征服欲をほとほとよく満足させた。
契約に縛られた刀剣男士たちに、その災厄から逃れる術はなかった。
ある日、一口の刀剣が折れた。
別に、見せしめというわけではない。日々苛烈を極める虐待を、身を寄せ合うことでなんとか耐え忍ぶ刀剣男士。そんな彼らに仲間を折らせたらどうなるのか。それは、男の思いついた新しい遊びだった。
いや、実は前々から考えていたことだ。しかし、男は機を待っていたのだ。
男は、相手をこれ以上なく苦しめるためなら、なんでもやった。劣悪な環境で慰め合い、相手に仲間の情が移ったその時、自身の手で仲間を折らせる。その瞬間のためだけに、影で互いをかばいあう姿に目こぼしし、刀剣男士を折らないよう細心の注意を払ってきた。
一番初めの刀剣破壊という衝撃を、この上なく効果的に使うために。
男の目論見どおり、刀剣は折れた。
折るのは誰でもよかった。偶然そこにいた、ただそれだけのために、『彼』は折られた。
『彼』は、自分を折った刀剣男士を恨まなかった。いっそ哀れんだ。そして、残される刀剣男士たちが、このことを原因にして仲違いしないでくれれば、と不安に思った。
しかしそれも、折れた瞬間の走馬灯のようなもの。一瞬で思考も掻き消え、『彼』の魂は本霊へと──……
いや。湧き上がる黒いよどみは、決して消えることはなかった。
ああ憎い、この恨みはらさでおくべきか。
残された刀剣たちがこれから味わうであろう地獄を思えば、『彼』は自分だけが楽になるわけにはいかなかった。
しかし、どれほどの憎しみも、怒りも悲しみも、折れた刀剣に刀剣男士をとどまらせるには至らなかった。この世に自身を繋ぎとめるクサビを失ったツクモアヤカシごときの、なんとはかないことだろう。
だから『彼』は、仲間のもとにとどまることも、かといって本霊に還ることもできず。よどみを抱え、流れ、流されて。
そして、『彼』は戻ってきた。
戻ってきた『彼』はひと突きのもと、かつて主であった審神者の男を絶命させた。
それはもはや、『彼』とは言えない『何か』だった。
v1
まだ十代も半ば、現世であれば親の庇護下にあるべきであろう年頃の少女が、凛と背筋を伸ばして座している。
現世では、正座ができない子供が珍しくなくなって久しいという。しかし、血埃で黒ずんだ畳に汚れを恐れず膝を突いた少女の居ずまいは、なんとも堂に入り、臆した様子などかけらも見せない。大したものだ。
そんな少女に相対するように座すのは、両の手で数えられる数を優に超えた刀剣男士たちだ。
殺気立っているわけではなく、その目には理性の光がある。しかし、傷の有無や着衣の汚れにかかわらず、みな一様に疲れきった表情をしていた。
ところで、こんのすけには、刀剣男士の能力をある程度数値化する能力がある。本丸の運営を補助するための機能だ。だから、少女の横に腰を降ろすこんのすけには、刀剣男士たちの疲労が心因的なものであるとわかった。
ひどく損傷している者も少なくないが、それでも半数以上はまともに刀を振れる状態だ。今はまだ、言葉を交わす余地があるようだが、下手なことを口にすればどう転ぶかわからない。
なにせここは、ブラック本丸であった場所だから。
不正を働いていた審神者は、すでにない。しかし、いまだこの本丸は深いよどみの中にある。
政府が浄化を試みてから早半年。結果はご覧のとおりである。
刀剣男士たちとの交渉役として、そしてこの本丸を正常化するための補佐役として、こんのすけは少女に就けられた。少女の身の安全は、こんのすけの最優先任務としてプログラムされている。
そのプログラムが今、こんのすけを困惑させる。
聞けば、かたわらの少女は、つい先日までは現世でただの女生徒をしていたのだという。憑喪神を認識できる程度の能力は備えているようだが、そんな一般人に毛の生えた程度の少女をブラック本丸に送り込んで、何が身の安全だ。
何かお偉方の推薦があったらしいとか、少女自身も志願して来たらしいとかいうことは、こんのすけにも知らされている。しかし、この半年の間に、数多く術者たちがこの本丸を訪れた。往年の大ベテランも、将来を嘱望される期待の若手も、みな同じくこの本丸を救いたいと、全力を尽くした。その誰もが、成し得なかったのだ。それをどうして、今更ただの少女に任せるというのか。
しかし、嘆いて見せても何もはじまらない。仕事をしなければならない。
こんのすけはすっくと立ち上がると、足音もなく少女の前に歩み出て、刀剣男士たちの視線を集めた。
「ご聡明なる刀剣男士様方が既にお気付きのとおり、この娘に敵意はありません。皆様をお救いするため、自ら志願して来たのです。
先日まで学徒であった身。先任の高名な術者様方に遠く及ぶべくもありませんが、どうか、どうか平に……」
「クダよ」
こんのすけの陳情は、しかし途中でさえぎられた。
表面上は穏やかな声だが、そこには有無を言わせない響きがあった。
呼ばれた通り、こんのすけはクダだ。此度の歴史改変戦争において、重要な戦力たる審神者の補佐を行い、政府の伝令役を務めるよう造られた。
こんのすけは審神者の数だけいて、機械的に番号を割り振られ管理されている。かつては北の地にて秘匿された呪術も、文化が極度に均質化された二十三世紀においては、そのほとんどがテンプレート化したプログラムによって構成される便利道具だ。刀剣憑喪神システムを支える歯車のひとつとして、日々使い潰されている。
しかし、どれほど機械的に扱われても、その本質は狐。
こんのすけは、全身の毛並みをぶわわと膨らませると、その尾っぽは後ろ足の間にするりと逃げ込んでしまった。化生の本能というヤツだ。
すっかり固まってしまったこんのすけに、別の声が投げかけられる。
「僕たちは、別に救って欲しいわけじゃない。それはそっちの望みだろう?
もちろん、みんなひどく傷つけられたからね。その償いがしたいというなら、拒む理由はないよ。人間を憎んでいるわけじゃないからね」
存外好意的な反応だ。
しかし、何度も同じセリフを聞いてきたこんのすけはうなだれた。
「だが、俺たちが望むのは手入れとかじゃねえ」
「そうです。ぼくたちはもう、すくわれているのですから」
「私たちの要求は、はじめからずっと、ただひとつ」
代わる代わる話す刀剣男士たちを前に、こんのすけは、ちらと背後の少女を見やる。
少女ははじめと同じ体勢で、目をそらさずしかと刀剣男士たちの話に耳を傾けていた。
彼女は何を思っているのだろう。
思ったより刀剣男士たちが理性的な様子で、胸の内では安堵しているだろうか。はたまた、彼らの望みをなんとか叶えてやろうと、熱い闘志でも燃やしているのだろうか。
だが、そんなものはすべて無意味なのだ。
「俺たちを救ってくれた『彼』を、なんとか救ってやりたい」
「しかし……私たちには、何も……できませんでした……」
「もう、僕たちの声は届かないところにいるんです」
刀剣男士たちの訴える声が、悲痛な色を帯びる。
彼らも、自分たちがいかな無茶振りをしているかは、痛いほどわかっているのだ。それでも、譲れない望みがある。
「どうか、頼む」
贖罪を受け入れる身でありながら、彼らはこうべすら垂れて見せた。
みな、ただひとつの願いを抱えていた。
「アレを殺してくれた『彼』を、救ってくれ」
今この本丸は、荒ぶるひとつの御霊に呑み込まれている。
昼と夜の違いすらわからない、薄暗い空。息をするのも戸惑われる、淀んだ空気。油断すると咳き込んでしまいそうなすえた臭いは、庭の池から湧き立ってくる。
祟り神。それが、まさしくこの本丸に根を張っていた。
ブラック本丸で主殺しを行い、祟りと化した刀剣男士は、実は今回が初めてではない。悲しいことだが、今までいくらかの本丸でそのようなことが起き、しかしそのすべてが本職によって鎮められ、荒御霊の状態を脱している。
古来、神とは両義性を持つもの。人々は神の恩恵を受ける一方で、その怒りに触れぬよう自身を戒めてきた。同時に、強大な力を持つ祟り神を手厚く祀りあげることで、その魂をなだめ、逆に守護の力として味方につけてきたのだ。
つまり、無茶を通そうとしたわけではない。勝手知ったるはずの専門家たちが、しかしこの本丸では軒並み鎮魂に失敗した。そういうことだった。
誰もが、成し得なかった。
それを、ただの少女に、いったい何ができるというのか。
こんのすけは少女を振り返る。
状況を理解しているのか、いないのか。少女は、相変わらず凛と背筋を伸ばし、そこに座していた。
不意に、少女の首がかしいだ。その眉間に、皺が寄るほどではないものの、軽く力がこめられるのを、こんのすけは見た。
訝しげ。困惑。そういった軽度の動揺が、少女の体調をあらわすバイタリティ値の変動から観測された。
「あの、たぶん勘違いされてます」
歳の割には、しっかりとした声色だった。しかしそれも、先ほどまでの堂々とした居ずまいを思い出せば、納得がいくものだ。
「勘違い?」
逆に、刀剣男士たちの方から訝しげな声が上がる。
ざわざわと動揺が室内に広がっていくのが、数値を解析しなくてもはっきりわかった。
「私は政府の配下じゃないです。だから、政府があなたたちに何と言ってたとしても、私があなたたちに償いだとかするつもりはないです。
私に望みを告げられても困ります」
「へ!?」
こんのすけはびっくりした。それはもう、その場で数センチ飛び上がった上に、着地に失敗してたたらを踏み、鼻先をたたみに打ち据えるくらいびっくりした。
「どどど、どういうことです審神者様!?」
「だから、私は政府の人間じゃない。だから審神者でもない」
「えっ! だって、いやしかし……!?」
こんのすけはかわいそうなくらい挙動不審になって、おろおろと右往左往しはじめた。そして、足を絡ませて、もう一度倒れた。
「あなたたちに会いに来たのは、知らない人間が来て、あいさつもせずに歩き回ってたら嫌だろうなと思ったから、です。
政府の許可は、もう得てます。私、あなたたちの誰も、決して傷つけません。だから、少しだけ私がこの本丸内をうろつくことを許してください」
おねがいします、と少女の良く通る声が響く。
あまりにも真摯な響きに、刀剣男士の何人かは思わず頷きかけた。
それを、周囲の仲間たちがあわてて止めに入る。
「ちょっと。待って待って」
「それだけの話で、はいどうぞと言うわけにはいかないぞ」
「おんし、一体何が目的でここに来た」
ピリリと、緊張を含んだ問いが四方から投げかけられる。
ひょっとしたら、殺気すら含んでいたかもしれないそれを、しかし少女は平気で受け流した。顔色一つ変えず、少女は毅然とした態度で口を開く。
「私は、私の友達を助けに来たんです」
自分は難しいことはわからない女子高生で、見ず知らずの人のために汗水垂らすような偉い人にはなれない。今だって自分のことで手一杯で、だから、あなたたちの助けにはなれない。
そう、少女は述べた。
刀剣男士たちはあっけに取られる。
もとより、今までこの本丸を訪れたどの高名な能力者にも成せなかったことだ。今更、ただ人にしか見えない少女に強要することではない。
少女の背筋は変わらず凛としていたが、その四肢はおそらく歳相応に頼りない細さだった。祟りに近寄るどころか、自分の身を守ることすらおぼつかないように見えるのだ。
しかし、そうであるなら、刀剣男士たちには問わねばならぬことがあった。
「君のお友達とやらを救うのに、どうしてこんな場所まで来る必要が?」
少女にうろたえた様子はなかった。ただ、わずかに顔を強張らせ、刀剣男士たちはそれを察した。
少女は目を伏せる。
深い、静かな深呼吸がひとつ、シンと静まり返った部屋に響く。
刀剣男士たちは、息を吸うことも忘れ、少女の一挙一動に注目した。
「私の友達は、呪われてるんです」
ギシリ。家鳴りが、不自然なほど大きく、部屋に響いた気がした。
「呪いとは……それはまた、いったい何に?」
「名前はわかりません。でも、逆らいがたい、とても大きな力です」
今まで、ただ真摯に、しかしどこか淡々と話していた少女の声色に、はじめてチリと火花を散らすような感情がのぞいた。
「その呪いの核が、ここにあるんです。
だから、ここまで来ました」
ざわり。
刀剣男士たちは、すばやく視線を交し合った。決して口にはせず、しかし気配が言葉より雄弁に意志を確認し合う。
少女は、神霊の類に嫌われるような要素は、特別持ち合わせていない。むしろ、堂々とした居ずまいや真摯な態度、友のためという言葉に、刀剣男士たちは好感すら覚えていた。
しかし、呪いという言葉を聞き過ごすわけには行かない。少女は、この本丸に自身の友人を呪う核があるのだと言った。
あの男が、審神者の能力を見出されるまでは、呪術などとはまったく無関係の一般人(その性癖がどうであれ)であったことは、事後説明を受けたこの本丸の刀剣男士たち全員の知るところだ。となれば、呪いの性質を帯びるものなど、この本丸ではひとつしか思いつかない。
「君は、術者でもなんでもない、ただの女の子なんだろう?
その呪いの核? そんなものがここにあったとして、どうするの?」
努めて平静を装った声は、うまくいっただろうか。そんなことには、もはや気が回らなかった。
刀剣男士たちはみな、めいめいが腰をわずかに浮かし、ある者は鍔裏に指を押し当ててひそかに内切りの準備をし、またある者は、柄にかける控えの手を隠そうともしなかった。
ヒィと、か細い悲鳴があがった。
今まで固唾を呑んで少女を見守っていたこんのすけが、お待ちくださいと飛び跳ねる。
「お待ちください、どうかお待ちくださいませー!」
「クダ、お前には聞いてないから黙れよ」
「ねえ、呪いを見つけて、それでどうするの?」
もはやこんのすけなど眼中にはなく、すべての刀剣男士のまなざしが、少女にそそがれていた。
一触即発の気配が、部屋に満ちていた。
「お願いします」
しかし、特に緊張した風でもない少女の返答に、張り詰めた空気が霧散する。
「私の友達を呪いから開放してくれるように、伝えます。私、お願いしに来たんです」
「お願いって……」
呆然と誰かが呟く。あきれ果てるとはよくぞ言ったものだ。あきれることすらできないできごとが、世の中には存在するものなのだ。
この少女は、呪いというものに言葉が通じると思っているのか。まじないが表の世界から姿を消して久しいとはいえ、あまりにもあんまりな考えではなかろうか。
刀剣男士たちは、ただ困惑する。少女のことが理解できなかった。そして、この本丸への訪問を許可した政府の思惑も。
「絶対、会いに行くって約束したんです」
それは、少女と友達との約束だろうか。
少女が上半身を前に傾け、頭を下げる。
「話を聞いてくれて、ありがとうございました」
何も、礼を言われるようなことはしていないはずだ。しかし、少女は心底感謝しているのだといわんばかりに、今までキリリと引き締めていた表情をやにわに崩した。泣きそうな表情だと、誰もが思った。
少女は立ち上がる。
「みなさんは、本当に、本当にやさしい神様たちですね。
私の友達も、すごくやさしい子なんです」
少女はうつむく。
「……ひどいお願いかもしれません。でも、できたら、私たちは友達だったんだってこと、誰かに覚えていてほしい」
それじゃ、さようなら。
くるり、少女の身がひるがえった。
あ、と刀剣男士たちが口を挟む間もなく、少女は入ってきた襖の間をすり抜けて、部屋を出て行ってしまった。
「い、いずこへ!
ああ、お待ちください! そちらへはなりません!!」
後を追うこんのすけの悲鳴に、全員が我に返った。
「待ちなさい!!」
鋭い声を上げて一番に駆け出したのは、驚くべきことに江雪左文字だった。
いや、この本丸の刀剣男士たちにとっては、得心の行く状況だったかもしれない。
ともかく、いつものゆったりとした口調など忘れたように、荒々しい足音を立てて、江雪左文字は部屋を飛び出した。それに一期一振が、そして宗三左文字が続く。
「いち兄!!」
一期一振と同派の刀剣男士たちから、悲鳴のような声があがる。身軽なものから次々に駆け出そうとし──しかし、それを圧しとどめる声がすぐに発せられた。
「待ちなさい!」
「だって!」
「落ち着くんだ、ただの女の子だったろう?
……あそこに近づけやしないよ。すぐ、三人が連れ戻して来てくれる」
「でも……」
ある者は泣きそうな声をあげ、またある者は無力感に痛いほど手を握り締めた。
粟田口の刀剣をとどめた声の主、石切丸は、彼らのそばに膝をついた。うつむく者の頭をなで、唇をかみ締めるものの頬に振れて呼吸をさせ、握り締めた手を包んでそっとほどいた。
「私たちの誰も、近寄れなかった。今まで来たどんな術者も、その様をちらと見ただけで逃げ帰った。
それは、私たちには悔しいことだけどね。でも、だからこそ、今は大丈夫だよ」
穏やかな声で語りかける石切丸は、しかし、胸の内に湧き上がる暗雲を散らすことができなかった。
だからといって、何ができるというのだろう。
仕方ないのだと、石切丸は自身も部屋に残る選択をした。そして、慰めるべき頭数が足りないことに気づく。
「……五虎退はどこだい?」
全員がはっと周囲を見渡した。
そうなるからには、どこにも見当たらないのだ。仔虎の一匹たりとも。この本丸で一二を争うほど、今回の件で心を磨耗させた、短剣の姿が。
ぞっと、全身が総毛立つのを感じた。
「薬研!!」
「おい、薬研!」
乱と厚の声に、石切丸は我に帰る。
短刀たちが、脇差の二口が、次々に部屋から飛び出していく。もはや、制止の声も間に合わない。
他の者たちも、各々親しい間柄同士で顔を見合わせると、どんどん部屋を出て行く。
「ああ、もう……!」
石切丸は頭をかきむしった。
何か、この本丸でとてつもないことが起ころうとしている。
占うまでもなく、神託を受けたわけでもない。しかし、それは確かな予感だった。
「私は祈祷する側で、予言を下す力なんてないんだけど、な!」
そして、石切丸もまた、部屋を飛び出したのだ。