v2
本丸という施設は、主が特別な改装を行わない限りは、大体同じ造りになる。なので、それを知っている者なら、はじめて訪れる本丸でも、迷うことはない。
しかし少女は、他の本丸のことなど知らない。にも関わらず、自身の向かうべき場所を知っているかのように、その足取りに迷いはなかった。
やがて、少女は雨戸が閉め切られた真っ暗な廊下にたどり着いた。ただでさえ薄暗い土地なのに、足元すらおぼつかない真の闇だ。
さすがに少女は一瞬躊躇して、足を緩めた。しかしパッと横を向くと、雨戸に取り付く。
雨戸は立て付けが悪いのか、ガタガタと揺れる。しかし、少しだけ隙間を作ることに成功すると、少女はそこに足を割り入れて、強引に蹴り開けた。
明るい、というには無理のある曇り空だが、それでも閉め切られた廊下とは雲泥の差だった。何かに蹴つまずいてしまうより、ずっといい。
少女は外に飛び出した。
少女は靴をはいていなかったが、気にする様子は見せなかった。靴下の方はちゃんとはいているので、よっぽどガラス片でも散らばっていない限りは怪我の心配はないだろう。屋内を歩き回った時点でドロドロになっていたので、今更汚れを気にすることもない。
少女が降りたのは、ちょうど庭に埋め込まれた平たい岩の上だった。
まるで少女をいざなうように、飛び石が庭の奥へと続いている。正しく、それが少女の求める道だった。
その先に、小ぢんまりとした家屋(本丸の母屋に比べたらの話で、人が生活するには十分な一軒家程度のサイズはある)が建っていた。
飛び石を渡ってそこに駆け寄った少女は、しかし数歩手前でギョッと足取りを緩めた。
飛び石の終点。少女が行く先の家屋の前に、少年が一人うずくまっていた。
薄汚れてはいるが、触らずとも容易に想像ができる、柔らかな銀糸の髪。服は破損がひどく、左腕などは肩口から血のにじむ素肌をのぞかせている。しかし、残された部位から読み取れる意匠に、少女は見覚えがあった。
つい先ほどまで対面していた刀剣男士の中でも、特に小柄な姿を中心として集まっていた者たちが、似たような色や材質の服を着ていた気がする。
あそこには、すべての刀剣男士がそろっていると思っていたのに。
はて、この少年はどうしてここにいるのだろうと、少女は首を傾げる。
ともかく、どいてもらわなければならなかった。
なにせ、この少年は、家屋の玄関に当たる位置にもたれかかっていたので。
「あの、生きてる?
動けるなら、通してほしいんだけど……」
刀剣男士というものは憑喪神の一種であり、見た目どおりの存在ではないことは、少女も知っていた。しかし、小学生程度の背格好をした相手に敬語を使うのはどうにも具合が悪く、平素の口調に戻ってしまう。
少女がそっと揺り動かすと、少年が顔を上げ、うっすらと目を開いた。褐色がかったおちついた金色の虹彩に、ハッと息を呑むような黒々とした瞳孔が光る、美しい目だった。
「あなたは……新しい政府の人、ですか?」
「え、いや私は」
「帰ってください……」
少女の答えも待たず、少年は少女を拒絶した。
「えっ、なんで?」
「ここには、すごい祟りがあるんです。祓いに来たって人たちはみんな、中に入る前に逃げ帰っちゃいました。
……いつも、僕たちを気遣ってくれて、すごくやさしかったのに……助けられないなら、触らないで。お願いだから、帰ってください……」
今にも泣き出してしまいそうな、震える声音だった。
「私は逃げないよ。祟りも怖くない」
少年が少女を見上げる。
「……あなたは、今まで来た人間たちより、そんなすごい人なんですか?」
「他人と比べたことないから、すごいのかってのはちょっとわからないけど。
あのさ、祟りっていきなり首絞めてきたり、殴りかかってきたり、天井落としてきたり、見たいな物理攻撃してくる?」
「くびし、め?」
少年は、わけがわからないというように首を傾げた。
「祟りは、死の指先です。近寄るものを腐らせ、触れたものを死で蝕むんです」
「じゃあ、大丈夫。近寄れるなら問題ないよ」
少女は満足そうに頷くと、少年の肩を押して、玄関の前からどかせた。
「でも、あの……その戸、閉ざされちゃってて……」
おどおどする少年の前で、少女は玄関の戸に、そっと手を当てた。
「逢いに来たよ」
何の抵抗もなく、戸は開いた。
驚き固まる少年の前で、少女はするりと家屋の中に入っていく。
その背を見送ることしかできず、少年はぺたりと地面に座り込んだ。
さて、どれほどへたり込んでいたのか。少年は、肩を揺さぶられて我に返った。
「五虎退! どうしてここに」
五虎退、と呼ばれた少年は、かたわらに膝をつく青年の姿を見上げて、じわりと両目を潤ませた。
「い、いち兄……」
「お前、広間にいなかったのか。何があったんだい?」
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい……!」
「ああ、怒ってるわけじゃないんだよ」
兄と呼ばれた青年、一期一振は、五虎退を抱きしめて、その背をなでた。
「開いている……」
呆然とした声が、一期の頭上から降ってきた。
見上げれば、江雪左文字が離れ屋敷の戸に手をかけているところだった。その後ろで、宗三左文字が着物の袖で口元をおおっている。
開いているとは。離れは、他ならぬ祟りの根源自身の手によって、閉ざされているのではなかったのか。
だから、今まで誰も、捨て身になることすらできなかったのだ。
一期が問うより先に、カラリ、軽い音を立てて、離れの戸が開いた。
「なっ」
江雪の手は、戸の取っ手を軽く押しただけだったが、戸は慣性によって完全に開き、離れの入り口が開かれてしまった。
「これは、いったい……?」
「あの娘のしわざ、と考えるのが妥当でしょうけど」
一期に答えた宗三の声は、信じがたいというように疑念に満ちている。
「お、女の人が来て」
嗚咽交じりに五虎退が声を上げた。
「それで、小さな声で『あいにきたよ』って……そしたら、開いたんです」
「声をかけた、それだけで?」
「それだけ、です……
近寄ったら腐っちゃうって、止めたんですけど……でも、逃げない、怖くないって……」
離れ屋敷の中から、何も音は聞こえない。
江雪と宗三は視線を交し合った。
「行くのですか!?」
無言で敷居を越えた二人に、一期がギョッと声を上げる。
二人は振り返らなかった。
一期はなにも言えず、五虎退を抱えたままで、その場に居尽くした。
にわかに、母屋の方から騒がしくなったのに気づいたが、そちらを向くこともできなかった。
v3
少女は玄関をくぐると、後ろ手で戸を閉じた。
日本家屋造りなのは同じはずなのに、先ほどまでいた本丸の母屋とは違う雰囲気を感じる。
少女は靴箱のふちに指を滑らせた。埃がたまっている時のざらりとした感触がないことに、瞬く。母屋の方は、埃とよくわからない油っぽい泥でベタベタだったのに。
脱ぐべき靴もないため、少女は靴下のまま家屋に上がった。
最初に少女を出迎えたのは襖で、少女はそれを躊躇なく開いた。
襖の向こうは、板張りの床の部屋だった。
何もない殺風景な部屋だ。なぜ畳を引かなかったのだろうと足元を眺めて、少女は気づいた。床板には、普通の生活の中ではまずつかないような、無数の傷がついていた。
家具を引きずってしまったから、なんてかわいらしいものではない。明らかにえぐったような深い跡もある。少女は、自宅でアイロンを取り落とした時にできた、床のへこみを思い出した。それより酷い傷が、いくつもあった。
少女は床を見るのをやめた。傷跡に、黒い汚れがこびりついているのを見たのだ。床板の色が濃かったので、すぐには気づけなかったが、その汚れがある場所は、水か何かをこぼした時のように染み色がついている。
少女は、小走りで部屋を横切った。
板張りの部屋の奥は、今度は障子によって仕切られていた。
早く板張りの部屋を抜けてしまいたいと思ったのだろうか。襖の時より、やや性急に障子が開かれる。
たぷん、と闇がたゆたった。
少女は、しょうじを開いた体勢そのままで固まった。
え、と声にならない声を、口が形作る。
何度瞬いて凝視しても、目の前の光景は変わらない。闇が、隣の部屋を満たしていた。
いや、そもそもしょうじの向こうにあるのは部屋なのだろうか。ひょっとしたら廊下かもしれない。
ともかく、見通すことのできない真黒の闇が、液体のようにたゆたって、障子の向こう側を満たしていた。
この闇が、見た目どおり水のような性質を持っているなら、隣の部屋は重力の向きがおかしいのかもしれない。闇は、こちらの部屋にあふれてくるようなことはなく、ぬらりと照り返しながら、湖面のように静かに揺れている。
少女は、胸に手を押し当てて深呼吸をした。
前に進まなければならなかった。この闇の中が、少女の行くべき先だ。ここまで来れば、少女の待ち人は、もうすぐそこにいるのだとわかった。
まずはじめに、右手を伸ばす。少女の接近に反応したのか、ざわりとミナモが揺れる。かまわず手を差し入れれば、闇が波立った。しかし、少女は何も感じない。
少女は瞬いて、そっと一歩前進する。ずぶずぶと左腕が闇に飲み込まれる
少女は、右腕も闇へ差し出した。
もう、少女の目と鼻の先で、闇がたゆたっている。
深く息を吸い込み、少女は目を閉じた。次の瞬間、大きく前のめりになり、前に踏み出した。
闇のミナモに飛び込んだ少女は、ゆっくりと瞬きした。目には、特に刺激を感じない。
次いで、胸いっぱいに吸い込んだ空気を吐き出す。そして、そっと息を吸えば、呼吸ができることも確認できた。
どういう原理かこの闇は、外側から見た時は水のような質感を持ち、ひとかけらの光も通さないくせに、触れば霧のように実体がなく、呼吸も阻害しないことから空気と同等の成分で構成されているようだ。
少女は改めて周囲を見渡すが、やはり何も見えない。文字通り、無明の闇というやつだ。
少女は、足裏の感触を頼りに、また一歩踏み出した。
何も見えないというのは存外不自由なもので、ともすればまっすぐ立っているのかすら怪しくなる。自然、少女の足は床から離れるのを嫌がり、その歩みはすり足となった。
足裏で床をなでることで、少女は床の独特な感触を繊細に感じ取った。板張りの床よりやわらかく、踏みしめることでわずかに沈む、マットのような感触。微細な凹凸が繊維状に走り、特定の方向にだけ妙に靴下の滑りがいい。少女は、その感触に馴染みがあった。鼻に煙る、線香のにおいを思い出す。両親の実家の仏間に敷かれていた、畳だ。
となれば、ここは先ほどの板張りの部屋と障子で区切られた、隣の部屋なのだろう。廊下に畳を敷くという話は聞いたことがない。
しかし、そんなことがわかったとて少女の助けにはならない。
少女が求めるものは、もうすぐそばにある。それだけは確かなのに、こんな真っ暗闇の中では、一歩前に進むことすらままならない。
いっそ、四つんばいになって這ってでも進もうか。
そんな少女の思惑は、一瞬にして吹き飛ぶことになる。
「本当に、来たんだね」
何の予兆もなく、『彼』は姿を現した。
少女は息を呑む。あんなにも逢いたかった『彼』。二人が共にあった時、二人は互いの大切な友達だった。唯一無二の半身だった。
その『彼』は今や、この深いよどみに囚われ、侵食されて、別の何かに変わろうとしている。いや、もう変わってしまったのか。
それでも、少女はかつてのように答えた。
「どんなに離れても逢いに行くって、約束したからね」
少女の微笑みに対して、『彼』は無表情だった。
元々、表情豊かな性格ではない。それでも、かつて少女のそばにいた『彼』は、少女の言動に眩しそうに目を細めたり、照れてうつむいたり、たくさんの感情を少女に見せてくれたのに。
少女はまじまじと、目の前の『彼』を見つめる。
一片の光もない闇の中で、『彼』の姿は少しも損なうことなくよく見えた。まるで、舞台の上で一人スポットライトを浴びているかのようだ。しかし、自身を見下ろした少女には、相変わらず自分の姿は見えない。
もしかして、目の前にいる『彼』は、少女の見ている幻覚なのだろうか。その考えは、少女をここまで導いた感覚が、否定した。これは、間違いなく少女の求めた『彼』だ。
だから、少女はかねてから考えていた通り、『彼』に話しかけた。
「ねえ、帰ろう?」
「……無理だよ」
「なんで?」
「わからない? 僕はもう、呼んでもらった僕じゃないんだ。だから──」
「わかんないよ……!」
少女のささやくような声は、しかし悲痛な響きをもって、『彼』の言葉をかき消した。
少女は両手を差し伸べる。
「別に、帰らなくてもいいよ。でも、離れ離れはイヤ。
呪いも、怨嗟も、つまらない誰かの妄想も、取るに足らない伝統も、全部全部、私が追い払うから」
言い募る少女を、『彼』はただじっと見つめる。
「お願い。どこかに行っちゃうなら、私も連れて行って」
「…………」
「もう、ひとりにしないで……!」
少女と『彼』、二人の視線が真正面から交わる。
口を真一文字に引き結んだ『彼』が、いったい何を思ったのか。それは、少女にもうかがい知ることはできなかった。
重要なのは、『彼』がその細く小さな手を、少女の差し出した手に重ねてくれたことだ。
少女の、年齢と性別相応にたおやか手より、さらにいとけなく薄い手。しかし、その手の平は、意外とかたくしっかりしていて、とても力強いのだということを、少女は知っている。
自分より小さな手に、少女はしっかりと指をからめた。
『彼』は抵抗しなかった。
「あのね、私は歴史の勉強はさっぱりだし、武器のこともぜんぜん興味ない。ツクモガミとか戦争だとか言われても、さっぱりなんだ。
だから、私にとっての『さよ』は、私の友達のさよだけなの」
少女は、絡め取った『彼』の手に、祈るように額を寄せた。
「ねえ、お願い、さよ。小夜左文字を捨てて、『私のさよ』になって」
少女の指と絡み合った、『さよ』と呼ばれた『彼』の手に、ぎゅうと力がこもる。それが、答えだった。
「……馬鹿だな。折れてしまった時からずっと、僕は小夜左文字なんかじゃないのに」
そう。かつて小夜左文字だったものの残滓を、少女が『さよ』と呼んで形を与えて以来、『さよ』はずっと『少女のさよ』だった。
同胞を求めた少女の孤独が、本霊に帰れず、復讐を遂げることもできず、ただ散り散りになって消えるはずだったよどみを、『さよ』として形作った。
「ずっと?」
「そうだよ」
「そっか、ずっとかあ……」
少女は、袖で目元をぬぐった。
小夜左文字。復讐の業を着せられた刀。何百年という時間をかけて積み重ねられた念が、小夜左文字を復讐の子として縛り付ける。
小夜左文字は憑喪神だから、人々の念から成っている。人の信じる姿に構成され、自分の在り様を自分で決めることができない。
さよは、小夜左文字であった自分を簡単に捨てることができなかった。だから、この場所に舞い戻ってしまった。
だけど、それも終わり。さよは、小夜左文字であることを捨てると決めた。何百年とかけて培われた幾千幾万の念を振り払い、たった一人の少女の祈りによってのみその身を成すと、もう決めたのだ。
しかし、小夜左文字を振り払ってなお、さよにまとわりつく、もうひとつの呪いがあった。
それは、この本丸をおおう、祟りの根源。この空間を満たす、闇そのもの。
少女の目には、その呪いが無数の細い糸のように見えた。
荒魂という概念がある。それは、神の一側面。荒ぶる魂という名の通り、呪い祟る神の姿である。神道の人々は、この荒魂を慰め供養することによって和魂に変え、その守護と恩恵を受けてきた。
しかし近年、この荒魂の姿と、堕神を同一視する流れが生まれはじめた。
本来、祟る姿も神の一部なのだ。しかし、荒魂の神性を否定し、祟り神はもはや神ではないのだと否定する者たちがいる。
憑喪神は、人の念が積もって生まれた存在。その根幹は、人によって簡単に左右される。
そう、憑喪神は自ら堕ちたのではない。荒魂を否定する念によって、祟り妖怪へと蹴落とされたのだ。
──この主殺しめ。
──神聖な契約に唾棄した、末席とはいえ神の面汚しよ。
無責任な声ががなり立てる。
怨嗟の声が闇を生み、よどみとなって、さよに絡みつく。
さよは、かつて小夜左文字だった。
小夜左文字を顕現した主は、現代の世に詳しいとは言えない憑喪神たちから見ても非情な性格で、長らく刀剣男士たちを苦しめた。
そして、ある日、小夜左文字が折れて。
小夜左文字は失われた。しかし、小夜左文字の復讐の業を負って、さよは舞い戻ってきた。
さよが、この本丸を支配していた審神者を殺したのだ。
そして今、さよを祟り妖怪へ貶めようと、無数の念がさよをこの場所に縛り付けている。
少女は眉を吊り上げて、さよに絡みつく呪いの糸に手をかけた。
「さよに触らないで!」
あっけなく、糸はちぎれた。音ひとつしなかった。