v4
離れに足を踏み入れた瞬間、体にまとわりつく呪いの気配に、江雪と宗三は口元を押さえた。
こんな場所に『あの子』は半年もこもっていたのかと思うと、平静を保つことが難しく、口の中にじわりと鉄さびの臭いが広がった。
この本丸にいるすべての刀剣男士たちにおいて、この離れの存在は、ここで審神者をしていた男の忌まわしい記憶に結びついている。だから江雪も宗三も、まじまじと室内を観察するのが戸惑われて、視線を部屋へと続く襖へと逃がした。
結果として、それは失敗だった。
先にここを通ったであろう少女が開けたのだろうか。人が一人すり抜けられる隙間だけ、襖が開いていた。その向こうに、傷だらけの板の間がのぞいている。
そこは、この離れにおいて、何より刀剣男士たちを苦しめた部屋だった。
江雪と宗三は、知らず体を硬直させた。
その部屋があるから、一期は離れに足を踏み込むことができなかった。
江雪と宗三は、覚悟していたつもりだった。しかし、過去の恐怖に結びつく記憶を、捨て去ることができなかったようだ。
江雪と宗三の位置からは、襖の隙間に対して角度があり、部屋の奥の方まで見通すことはできない。
あの少女を追って、部屋に踏み込まなければならないのに、部屋に入ることはおろか、中の様子をうかがうために、見える位置まで移動することすらできなかった。
母屋よりずっと重苦しい呪いの気配のせいか、体が重い。両の足の裏が、地面に張り付いてしまったかのように動かない。
いったいどれほどの間、そうしていたのだろう。江雪も宗三も、行くことも引き返すこともできず、ただただ立ち尽くしていた。それは、ずいぶん長い間だった気も、数回瞬きをするていどの短時間だった気もする。
そんな二人を動かしたのは、離れを満たす気配の変化だった。
それは、唐突に訪れた。今まで、離れを中心に渦巻いていた呪いが、突然その性質を変えたのだ。
離れに集まるように淀んでいた呪いが、中心となる軸を失って乱れる。拠るべき瀬を見失ったかのように、呪いが離れからあふれ出す。氾濫だ。
では、呪いの根源であった『あの子』はどうなったのか。
腹の底がぎゅうと縮こまるような恐怖が、江雪と宗三を襲った。
今度は、立ち止まらなかった。
過去の恐怖がなんだ、そんなものもはや失われた亡霊ではないか。その恐怖をただの亡霊に変えてくれたために、『あの子』は長らくこんな場所にこもることになったというのに。
ほとんど押し破るように襖を開け放つ。
痛々しい傷跡が残る床が、呪いの残滓を嗅ぐわせる。しかし、呪いの中心であった場所は、ここではないのだ。
機動の値のため、宗三は江雪に先んじて、板の間の奥の畳の間に向かった。
襖と同様に、乱暴に扱われた障子が、かろうじて敷居の窪みを飛び出さずに横にすべる。壁に叩きつけられて、ピシャリと不平の音を立てた。
しかし、江雪も宗三も、物言わぬ物の訴えに耳を傾ける余裕などなかった。
「小夜? どこです、小夜!」
宗三の声に、しかし返事はない。
ここにいるはずの『あの子』の姿も、先に来たはずの少女の姿もないことに、嫌な予感だけが募っていく。
声を荒げて押入れなどを荒らす宗三の背を見ながら、江雪は考えた。あの少女は、なんと言っていただろう。
確か、お願いするのだと言っていた。呪われた彼女の友人を解放してくれるように、などと。
あの時はあきれ、道理を知らぬ娘だと馬鹿にする気持ちがなかったとは、けっして言えない。
しかし、もし本当に少女が本気だったなら。
そんなことはありえないとわかっている。しかし、もし万が一。いや億が一、あの少女の友達を呪ったのが『あの子』で、少女がここまで来たというのなら。
あの真摯な少女の訴えに、『あの子』はなんと答えただろうか。
いや。そもそも、あの少女は見た目の通り、本当に無能の者だったのか。友達のためという言葉が、嘘だったとは言わない。しかし、どんなコネがあったとて、こんな異界の領域まで来る人間が、まったくの無能であるものか。
少女は、刀剣男士は誰も傷つけないと宣言した。果たしてそこに、呪いの蝕まれた『あの子』は含まれるのか。
カタリと音がして、ハッと横を見た。
閉め切られていたはずの窓板が、ほんのわずかに浮いていた。
一方、離れの外に残った一期のところには、母屋を飛び出してきた刀剣男士たちが集まっていた。
いの一番に駆けつけた薬研に、未だしゃくりあげる五虎退を預けた一期は、粟田口の短刀や脇差だけでなく、他の刀派の者まで続々と駆けつけはじめたことに驚いた。
「一期君、大丈夫?」
「は、はい。しかし、これはいったい……」
「石切丸君が、全員が行くことはないって一度止めてくれたんだけどね。五虎退君がいないことに気づいたら、もうみんな気もそぞろで、結局こうなっちゃったんだ」
「それはとんだご迷惑を……」
恐縮して、集まった者たちに頭を下げる一期に対し、みんな気にするなと笑って見せた。
粟田口派吉光が作の長兄として気丈に振舞ってこそいるが、この本丸が開放されたあの日以来、彼が五虎退に劣らぬほど塞ぎこんでいるのは周知の事実だった。辛い時期を支えあって耐え忍んだ分、この本丸の刀剣男士たちの仲間意識は、刀派に関わらず非常に強い。
そして、ようやっと足の遅い者も、そろって庭に姿を現した。
五虎退の無事な安堵したためか、ここでようやく『そういえばあの少女は?』と、誰かが思い出したかのように声をあげた。
少女が向かった先などわかりきっているのに、みな一様に離れに視線を向けようとはしない。みんな、過去を直視したくないのだ。あるいはできないのか。
その時。短刀と脇差の数名が、はじかれるように振り向いた。他、大太刀も抜刀の構えを取る。
その動きに、他の刀剣男士もそれぞれ刀の柄に手をかけて。
「みな……っ」
おそらく警告であっただろう声は、しかしみなまで発せられる前に呑み込まれた。
長らく外界の干渉を拒み、固く閉ざされてきた離れ。そこにはのろいがはびこり、濃い祟りの気配がよどんでいた。
その離れの戸が、今開かれている。もっと早くに予想してしかるべきだったのだ。
離れの母屋から遠い側の窓。閉ざされているはずのそこから、呪いがあふれ出した。
それは、物理的な視認を許すほどの、深い深い呪いだった。
月のない夜より深い闇。呪った者はただ一口、呪いの先もただ一人だったはずなのに、いまや無数の怨嗟の声を伴う、重すぎる祟り。
離れに収まっていたとはにわかに信じがたい質量が、水の詰まった袋のような動きで、ごろんとあふれ出た。
あっけに取られ、身じろぎひとつできない刀剣男士たちの前で、それはまるで生き物のようにかま首をもたげた。首がゆっくり、くるうりと刀剣男士たちの方を向いて。
瞬間、その頭にあたる部分がはじけた。
「うわっ」
飛び散った呪いの飛沫を、みんな身をのけぞらせて避ける。本能的な忌避だった。
あれは、自分たち刀剣男士にとって、とても恐ろしいものだ。決して触れてはいけない。そう、警鐘が鳴り響く。
そうして刀剣男士たちが避けたあとに、闇がひとかたまり転がった。
べちゃり、絵の具のように散った闇から、白がのぞく。
「いてて……」
むくりと身を起こしたのは、なんとあの少女だった。
糸を引く闇を振り払い、少女が立ち上がる。少女の体に付着した闇は、身震いひとつで簡単に霧散した。しかし、彼女が腕に抱える物には、未だ闇がヘドロのようにこびりついている。
それが、少女が後生大事に闇のかたまりを抱えているように見えて、遠巻きに様子をうかがう刀剣男士の何人かは、眉をひそめた。
その時、はじけた首の跡から、糸を引きながら闇が滴った。それは、少女が抱える闇と引き合うように、少女のかいなへと落ちてくる。
まるで、少女が抱える物を取り戻そうとしているかのように、ポタリポタリと垂れたしずくが、何重にも糸を引いて、少女の腕にまとわりつく。
少女は、左手を激しく振り乱して、その糸を断ち切った。
「だから触らないでってば!!」
声を荒げた少女に、何人かが肩をびくつかせる。それくらい感情のこもった声だった。
そうして、少女は右手で抱えていた物を振るった。
ピンと伸びた背筋。流れるような腕の動き。それは、刀身についた血糊をきる刀剣男士のような、自然な動作だった。
そして、その一振りで闇が振り払われる。きらめく刃。全員が、あっと息を呑んだ。
その刃の名を、みんなよく知っていた。
見間違えるはずもない、その姿。かつて、この本丸の主だった男の急所を突いた凶刃。
小夜左文字が、少女の手に握られていた。
呪いのかたまりが、まるで意志を持つかのようにほえた。途端、真黒の闇が、いくつもの奔流となって少女におどりかかる。
誰もが息を呑んだ。
しかし、少女は背筋を伸ばしたまま微動だにしない。
闇に触れる直前、少女は刃を持つ右手とは逆の、左手を掲げた。荒事にはとても向かなさそうな、細い指に、小さなてのひら。闇の流れがそれに触れた瞬間、なんとそこから霧散した。二つ、三つ。そうやって、すべての奔流をやり過ごしてしまう。
少女は、はじめの場所から一歩たりとも動いていない。
もう一度、呪いがほえた。
まるで、太陽が雲に陰ったかのように、辺り一帯が暗くなった。いや、元々曇り空だったのだから、突然夜になったというべきか。
「うっ……」
刀剣男士の誰かが、呻いた。
一人、二人。耐え切れずに膝をつく。
今日まで離れの中に押しとどめられていた呪いが、今本丸全体を薄もやのようにおおっていた。
いや。離れの中にあったはずの呪いは、闇のかたまりの形をして変わらず目の前にある。それならば、これは呪いが呼んだ新たな呪いなのだろうか。
呪いにじかに触れてはじめて、刀剣男士たちはその本質を知った。
忌避して当然だ。これは正しく呪いであった。
刀剣男士たちは今までずっと、離れに渦巻く呪いは、小夜左文字が主を殺したときに吐いた呪詛だと思っていた。だからこれは、小夜左文字から審神者だった男に対する呪いなのだと、ずっと勘違いしていた。
しかし、違ったのだ。これは、刀剣男士に対する呪いだ。主殺しをした付喪神を零落させ、祟り妖怪へと変じさせる、凶悪な呪詛だ。
ただ一人、背筋を伸ばして闇の真正面に立つ少女が、声をあげた。
「さよは誰も祟らない。もう復讐もしない、必要ない。
だから、さよを離して!」
どういうことだ。全員が目を見張った。
だって、この本丸の刀剣男士たちが、外部の人間と触れ合う機会などなかったはずだから。
なのに、あの少女はどうして小夜左文字の名を叫ぶ。
少女の訴えを拒絶するように、地面がわなないた。
たまらず、少女はバランスを崩して倒れこむ。その地面に、亀裂が走った。
少女の様子を見守ることしかできなかった面々が、あっと息を呑む。
その時、少女の体が跳ね起きた。
今まで、素人であることが一目瞭然の足運びをしていた体が、一転してとてもしなやかに動く。それは、闇を刀身から振り払った時に、一瞬だけ見えた気がした、刀剣男士の動きだ。
抜き身の刀身を右手に構え、襲い来る闇の腕をかいくぐって、その大元に肉薄する姿に、誰もが見覚えがあった。
v5
さよの核とでもいうべき本体が、今自分の手の中にある刀だということは、少女もずいぶん前から知っていた。
闇の中から、刀は連れ出した。しかし、まだ完全ではない。さよを呪う大元を断ち切らない限り、さよを取り戻すことはできない。
さよを開放してほしいという少女の乞いを、しかし呪いは拒絶した。
途端、襲い来る地割れ。
だが、未だ呪いの影響下にあるとはいえ、さよの本体は少女の手の中にある。さよが少女の体を起き上がらせ、呪いの元へと駆らせた。
少女は、何も勝算なく『お願い』をしようとしたのではない。もし、この呪いがただの怨念の集まりなら、お願いするまでもなく、吹き飛ばしてやったところだ。
しかし、この呪いには核があった。刀剣男士を呪う念を引き寄せた、はじまりがあった。それを蹴散らすような真似を、少女はしたくなかった。
少女は闇に掴みかかる。
やはり、なんの感触もなかった。しかし闇は、少女に触れた場所から、引き千切られるように消えてゆく。
自身の体に叩きつけれらるいくつもの闇のかたまりを、少女はそよ風ていどにも感じないようで、かまわず闇を掻き分けた。
少女は、この呪いの核に訴えなければならなかった。何故なら、その核となった存在の救済も望んでいたから。
夢中で掻き分けた先で、三白眼がチカリと光った。
少女は抱いた剣の柄を握り締め、反対の手を伸ばして口を開いた。
「小夜左文字!」
三白眼が瞬いた。
本来、白目であるべき部分は黒く、青い光を反射するはずも瞳孔も、すべての光を吸い尽くしてしまったかのように深淵をのぞかせている。そこに繋がる肌も、それをおおう髪も、すべて闇色だ。
しかしその作りは、少女のよく知る少年のものと同じだった。
見知らぬ少年の瞳が、少女を見つめ返す。
「ねえ、小夜左文字!
私とさよは一緒に行くって決めたから、君にさよは返してあげられない。でも、君がとても苦しんだことも、苦痛に対する復讐なんかより、残された人たちを心配していたことは、私たちが知ってるから!」
少女の腕の中で、刀剣がじわりと熱を持った。
いまや、少女と少年は、目と鼻の先ほどに接近していた。
「君は復讐なんてできなかった。しなかった!
君の意義は復讐なんかじゃない、家族を大切にすることで、君の家族は仲間だったんだよ。
だから、もうこんな場所にいる必要ないんだよ!」
そう、少年は少しばかり、帰り道に迷ってしまっただけなのだ。
しかし、少年のような存在が道に迷った末、消えずに在るべき場所に還れるというのは、とても稀有なことだ。その奇跡を、少女は今、もたらそうとしていた。
はじまりは、少年が、小夜左文字が折れたことだった。
折れた小夜左文字は復讐を望み、それ以上に残された仲間たちを案じて、本霊にも帰れずさまよった。
それを、少女が拾い上げた。
少女の呼ぶ『さよ』の名で再構成されたさよは、ほとんどの記憶を失って、長らく少女のそばにあった。忘却してなお、さよの胸の内にくすぶる復讐の火は消えなかったが、唯一無二の友として自身を慈しむ少女に、いつしかさよも同じだけの情を返すようになっていた。
何より、塵と消えようとする魂と、孤独な夜に胸の虚に泣く少女。ただ慰め合うには、互いの欠落が多すぎた。お互いの虚を埋めあうように、二人はひとつになった。まるで連理のようだな、とわらったのは誰だったか。
覚醒は突然だった。ある日突然、さよは小夜左文字の記憶を得た。
どうやって時空を飛び越えたかも覚えていない。気づけばさよは、かつて審神者と呼んだ男に刃を突き立てていた。
そして、どろりとした闇が、さよの体から湧き出した。
つまり、審神者の男を殺そうとしたのは、小夜左文字だった。小夜左文字が望んだ。
しかしそれはかなわず、その後を継いだのがさよだ。さよはその時すでに、厳密には小夜左文字ではなくなっていた。それでも縁は繋がっていたから、小夜左文字の念に引きずられるように、その刃に光をそり返させた。実行したのはさよだった。
そして、主殺しの呪いが、小夜左文字の残滓とさよを、等しく蝕んだ。主殺しの付喪神を零落させようとする呪いが祟りを生み、一帯は一瞬にして祟り場と化した。
おかしな話だ。
だって、小夜左文字は主を殺していない。できなかった。
さよの主は殺した男ではない。『彼』は男の小夜左文字ではないから。
なのに、呪いは二人を同一視し、祟り妖怪へと零落せしめようとしている。
さよは、小夜左文字との完全な決別によって、この呪いを半分振り払った。
さよは小夜左文字ではない。だから、あの男は主ではない。さよの唯一無二は、後生ただひとり。
しかし、切って切れないのが縁である。さよの方から振り払ったとて、縁を伝って、まだ呪いは続いている。残りの半分は、小夜左文字が振り払わなくてはならない。
だから、少女は懸命に呼びかけたのだ。小夜左文字は復讐していないのだと。彼の最後の心は、復讐ではなく、残されるものの安否にあったことを思い出すよう、強く訴えた。
少女は小夜左文字を知らない。しかし、自分にさよをもたらしてくれた存在に、感謝していた。だから、安らぎの待つ場所に送り還してやりたいと思った。
もう、すべて終わった。こんな見当違いの呪いに付き合ってやる必要はない。還っていいのだ。
開放してやりたいと願ったのは、さよと小夜左文字、二人のことだった。
「──うん、いいよ」
聞こえた声に、少女は瞬いた。
見つめる先で、少年が受け入れるように両腕を広げる。無防備な胸元がさらけ出された。
そして、少女の意識の外側で、右腕が振り上げられた。肩が引かれる感覚に、少女もそれに気づいた。
「……っ」
少女は、自分の意志で、その右手に左手を添えた。
刃が、振り下ろされた。
感触は、なかった。音もしなかった。すべて、今まで闇を振り払ってきた時と、何一つ変わらなかった。
もはや存在しないもの、あるべきでないもの、現世に血肉を持って干渉するだけの力を持たない無象ども、それを振り払っただけ。それだけだった。
刺した場所から、闇色の少年が霧散する。ただ、見詰め合った瞳まで掻き消えてしまうその寸前、うっすらその目が笑った気がした。
そうして、小夜左文字は還っていった。
折れてから、あまりに遠すぎた安寧の時だった。
不意に、桜花のひとかけらが宙に浮いた。
それは、小夜左文字の残滓がいた場所にひらい舞い落ちて、手の平に捕まえた早すぎた雪のように、あっけなく消えた。
つい先ほど突き立てた刃を胸に抱き、少女は手の甲で目元を拭った。
しかし。
そんな余韻に浸る間も許さぬという風に、空気が震えた。
ビリビリと肌を刺激する震動に、少女は動揺したように、より強く刀を掻き抱く。
許さない。そんなことは許さないと、呪いが叫んだ。それはコトワリだった。誰かが思いついて、時間をかけてまことしやかに囁かれてきただけの、つまらない決まりごとだ。
主殺しは許されないのだ、逃がさない、呪われてあれと、空がわなないた。
空が夜闇に染まる。本丸をおおう、呪いの気配が濃くなった。
ヒュウと呼気を鳴らし、少女は胸いっぱいに空気を吸った。
その背筋がピンと反り返る。
「うるさあああああああああああああい!!!」
今まで、息を呑んで少女の動向を見守ることしかできなかった刀剣男士たちが、耳を押さえてうずくまった。
少女はよっぽど興奮しているのか、肩で息をしている。
宙をにらみつけ、ギリと奥歯をかみしめた。
呪いも、怨嗟も、つまらない誰かの妄想も、取るに足らない伝統も、全部全部、追い払うと約束した。
本当につまらない呪いだ。くだらない妄想だ。そんなものはいらない。ましてや、もう小夜左文字もいないのに、往生際悪く居残るなんて許さない。
小夜左文字の残滓という核を失って、闇の姿をした呪いは霧散した。だからお前も消えてしまえと、少女は宙に吐きかける。
「あんたたちに許してもらう必要なんてない! 帰って!!」
それは子供のような地団駄だった。全身を使ってアピールすることしか知らない、子供のやり方だ。
しかし、少女は知っているのだ。形のないものに対し、血肉を持った者が明確な意思を持って拒絶を表せば、決して負けはしないのだと。
一陣の風が吹いた。
遠くからバキバキと、何かが剥がれ壊れる音がする。庭の草が荒れ狂って踊る。そばの木が、今にも半ばから折れそうなほど、激しく揺れ動く。
少女は、飛んでくる細かな石や折れた枝葉から身を守るため、地面に伏せるように身をすくめた。
そして、風が止んで顔をあげる。
青い空が広がっていた。
少女が、この本丸に足を踏み入れたときの曇天は見る影もなく、遠くに入道雲が立ち込める、夏のすがすがしい空が広がっていた。
本丸は台風一過のごとく静かで、未だ虫の音もしない。しかし、じわりと首筋を熱する日差しは、確かな夏の気配を本丸に知らせていた。
少女は息を吐いて、腕に抱えていた刀を両手に乗せた。
鞘などない、抜き身の刃だ。かなり強く抱きしめた時もあったはずだが、しかし少女には傷ひとつない。
さよに未練がましく追いすがった呪いは、もうない。ではさよはどこに。
夏の日差しを受けてチカチカと光る刃先を、少女はじいっと見つめた。
その時、桜吹雪が舞い起きた。
「さよ!」
少女が腕を広げて、飛びつくように桜吹雪の主を抱きしめる。
彼女が持っていたはずの刀剣は、いつの間にか抱きしめた相手の手に渡り、かちりと音を立てて、その腰の鞘にしまわれていた。
「全部追い払ったよ!」
「うん」
「ここに来るまで、いっぱいいっぱいがんばったよ……!」
「ああ」
少女に抱きしめられた少年の腕が、少女の背に、そして頭に添えられた。
ポンポンと、やさしく労わるように撫でさする。
「ありがとう。おつかれ。
──さあ、もう休んで」
小柄な体躯に反し、低く落ち着いた声。それが、少女の耳元で囁いた。
少女の目が、トロンと融けるようにまぶたを落とす。そうして、少女はあっという間に、少年に身を預けるように四肢を垂らしてしまった。
あとは、すうすうと穏やかな寝息が聞こえるのみ。
「ただいま、僕の──……」
さよと呼ばれた少年が囁いた名を、彼だけが知っている。