他の本丸には、食事係や当番というものがあるらしい。らしいというのは、自分たちの本丸にはそれがないので、実感としていまいちピンとこないのだ。
では、数十人分もの食事をどうしているかと言うと、炊事妖精を採用している。一抱えもある大きな炊飯ガス釜が二つ、鍋はコンロに据え付けられた業務用で、揚げ場はシンク据え付け、業務用冷蔵庫と冷凍庫は当然ながら、焼き物用に業務用オーブンまで備えている。それらが、小さな炊事妖精たちにも扱えるように配置されていて、毎日三食の白飯汁物揚げ物焼き物は、彼らが準備してくれる。
かわりに炊事補助という内番があり、出来上がった食事を盛りつけたり、食器の後片付けをするのが役目だ。
ちなみに、献立は主が決めるという地味に負担の重い決まりになっているが、当の主は早々に政府発行の刀剣男士対応365日献立表を採用した。おかげで、本丸の食事はいつも偏りなく彩り豊かである。
しかし、だからといって、通常の台所に給湯室以上の出番がないわけではない。妖精用炊事場の隣にある真新しいシステムキッチンは、ちょっと小腹が減った刀剣男士たちの憩いの場だ。それに、献立表にのぼらない現世のお菓子やジャンクフードが恋しくなった主が、近侍を伴って通販で取り寄せた材料片手にしばしば姿を現す。
そんなわけで、畑仕事の内番に一区切りつけて休憩を取っていた燭台切光忠は、突如として台所(ほとんどの刀剣男士は厨と呼ぶ)に姿を現した主に、たいして驚かなかった。
「光忠さん、卵ないかな」
お菓子作りには何かと入用らしい卵を失敬しようとするのも、まあいつものことだ。
「できれば常温がいいんだけど」
「常温はさすがにないよ」
「まあいいか。じゃあ冷蔵庫の使おう」
冷蔵庫という存在にあまり馴染みがなかった刀剣男士たちにとって、常温でも長持ちする卵を冷蔵庫でさらに長持ちさせようという発想など、本来はない。しかし、二日に一度は卵かけご飯を好んで食べる彼女が、一週間ほど政府の病院に収容されて以来、この本丸で卵の常温保存は固く禁じられていた。
彼女の近侍いわく、すでに現世でも一度やらかしているというのだから、人間の職への執念というものは、いかんとも侮りがたい。
ともかく、常温の卵の入手をあきらめた光忠の主は、牛乳と呼ばれる飲料の紙パックと、そしてなにやら小さな小瓶を机の上に並べた。牛乳は光忠が名前を覚えるくらい頻繁に持ち込まれるが(そして使い終わる毎に残りは流しに捨てられる。なんでも、うっかり放っておくと白からピンクに進化するらしい)、主の手でも簡単に包み込める小さな褐色のビンには、さっぱり見覚えがなかった。
今日のお菓子作りはずいぶんと材料が少ないのだなと、光忠は主の様子をぼんやりと眺めた。いつもなら近侍といっしょに、材料を両手いっぱいに抱えて厨に現れるものだから、珍しく二人が手も繋げないくらいなのだ。
はたと、光忠は気づいた。近侍の姿がない。
光忠は驚愕する。だって、本丸内のどこに行くにも、片時も彼女の手を離さなかった近侍が見当たらないのだ。
「ねえ主、さよ君はどうしたの?」
主は冷蔵庫から卵を失敬しようとする姿のままで動きを止めた。数度まばたき、じっと光忠を見つめる。
「砂糖ってまだ量あるよね?」
光忠の問いなど聞こえなかったかのように、彼女は首を傾げる。取り出した卵を机の上に転がすと、砂糖が置いてある戸棚に向かってしまった。
えええ、と思わず声をあげて、光忠は立ち上がる。しかし、次の言葉を口にするより早く、誰かが台所に駆け込んできた。
「すみませーん! 麦茶ってまだたくさんありますか?」
「あるよー」
主は答えながら振り返る。
光忠は位置の関係から、主より少しだけ早く、台所に入ってきた人物が堀川国広だと確認することができた。そのほんの少しの間に、堀川が苦笑いしながら人差し指を唇の前に立て、口をつぐむようにと合図するのを見た。
堀川は「主さん」と声をあげて、いつもと同じ人好きのする笑顔で主に近寄る。
「お菓子作るんですか?」
「まあね。堀川くんは?」
「兼さんたちの手合わせがそろそろ終わりそうなので、お茶を出そうと思って」
「そっか。じゃあ、作り足しておいた方が良さそう」
麦茶はいつも十二分に冷蔵庫に用意しているつもりだが、手合わせの後となれば消費量も尋常ではないだろう。備えを切らさないために、主はヤカンを三つ取り上げる。ないならないで、井戸水だって十分に冷たくておいしいのでかまわないのだが、主にとってお茶とは、常に冷蔵庫に常備されてしかるべきものであるらしい。
「主さん、僕がしますよ!」
「別にいいよ、今から火使う予定だったから。お湯が沸いたらパックいれて、煮詰まる前に火から降ろすだけだからね。
あ。でも、冷めた頃に冷蔵庫に移すのは、やってもらえたら助かるかな?」
「わかりました」
そうして堀川は、お茶の容器と人数分のコップをお盆に載せると、それじゃあと台所を去って行った。
困ったのは残された光忠だ。
堀川の目配せの意味は、おそらく心配ないので放っておくようにということだろう。もちろん、本丸内が安全であることは光忠も承知している。しかし、日々主に張り付いていた近侍の姿を思えば、彼女をひとりで台所に残すのははばかられた。
そんな光忠をよそに、主である少女は、卵をボウルに割り入れ、砂糖を量り、牛乳を軽量カップにそそぎと、手馴れた様子で作業を進めていく。
ふと、光忠の視界の端で暖簾が揺れた。この台所は、廊下とは暖簾一枚で隔てられているのだ。
暖簾の隙間から顔をのぞかせたのは、いつもどおりのやんちゃそうな笑みを浮かべた鯰尾藤四郎だ。その後ろには、こちらもいつもと同じ我関せずといった表情の、骨喰藤四郎も控えている。
いつもなら朗らかに声をかけてくるはずの鯰尾が、なぜか無言で光忠を手招きしている。骨喰がため息をついていないため、イタズラの類ではないとわかるが、なんとなく近寄りがたい。すると、鯰尾が自分の横をちょいちょいと指差した。廊下に何かあるのだろうか。
光忠は意を決して近寄った。鯰尾が後ろに引いて場所を空けてくれたため、暖簾を手で避けて廊下に身を乗り出す。
鯰尾が指差す先に視線を落とすと、青い団子が転がっていた。
は、と口を阿の字に開け、光忠は呆然とかたまる。廊下の隅、台所の入り口脇に転がる団子は、主の近侍だった。
いや、これは本当に近侍だろうか。全身を青の袈裟でおおってしまっているため、ひょっとしたら別の短刀やふとんでも丸めて中に詰め込んであるかもわからない。
光忠がさらに回り込んで団子を観察すると、袈裟でおおいきれなかった隙間から、あの特徴的な青の神が、ぴょこんとはみ出しているのが見えた。やはり近侍のさよのようだ。
さよは、正座の状態から上半身を丸めるようにして、廊下にうずくまっていた。
どうしたのこれ、と光忠は視線で鯰尾と骨喰に問いかける。
鯰尾が苦笑を浮かべて、こそこそと光忠に囁いた。
「なんかケンカしたみたいです」
「ケンカ。なんでまた」
「さあ?」
光忠はおろおろと、廊下のさよと台所の主を交互に見たが、鯰尾は大事にも思っていないようで、能天気に笑っている。
骨喰が、すっと光忠に寄った。
「ケンカしても離れがたく思っているのだから、心配することはない。だから主もああしてるんだろう」
その主は、なにやら泡だて器でボウルの中身を必死にかきまぜている。
よく見かけるお菓子作りの姿だ。ただ、隣で手伝う近侍の姿がないだけ。
光忠は瞬いた。
「プリンという菓子がある」
「ぷりん」
光忠は復唱した。
「牛乳と卵で作る、冷やした茶碗蒸しのような菓子らしい」
「へえ」
「さよの大好物だと、前に主が言っていた」
「なるほど」
主が作っているのは、そのプリンに間違いないだろう。
光忠はさっきまでと打って変わって、頬の筋肉がどうしようもなく緩むのを感じた。
「かわいいねえ」
「ああ」
「ですよね!」
主が鍋に水を張り、火にかけた。茶碗蒸しなら蒸し器は使うはずだが、鍋で代用するつもりらしい。
「蒸し器ってどこにしまってたかな」
「いや、昔から主は鍋で作ってるらしいですよ」
「それ、卵焼きにならない?」
「『弱火でじっくりコトコトがコツ』だと言っていた」
「本当に慣れてるんだねえ」
この本丸に審神者として就任して以来、主の生活はいっぺんに変わってしまった。
正規手順を飛び越えての就任のため、本来見習い時代にするべき勉強と、審神者としての業務を、まとめて負っている。その上、彼女は現世では学徒の身分であったらしく、修了の資格を得るための学習までしているのだという。
昔は、休みのたびにお菓子をこしらえていたのいうのだから、ひょっとして彼女にとってお菓子作りとは、現世を懐かしむ心を慰める重要なひと時なのかもしれない。
(片羽「単純な趣味が盛大な誤解を光忠さんに与えている」)