全身をじっとりと包む熱の不快感に、少女の意識はまどろみから浮上した。
おきなければと頭のどこかが囁いたが、元々の低血圧がたたり寝汚い方なので、重いまぶたが開かない。覚醒したとは言いがたい状態だったが、じりじりと上がり続ける気温と、汗で首筋に張り付いた髪の不快感はひとしおで、少女は二度寝かなわず手探りで目やにをぬぐった。
転がったまま腕を上げて背筋を伸ばせば、さすがに目がさめてくる。少女はあくびをひとつ、腕を頭上に伸ばし、寝ている間に固まってしまった体をほぐした。
あくびを終えた少女が薄目を開ければ、見慣れた青の髪が視界に入った。
少女は大切な家族がいつもどおり隣で寝ていることに顔をほころばせる。そして、瞬いた。見慣れない緑を目に留めたのだ。
「たたみ?」
記憶にある物よりなんだか薄汚れているが、間違いなく畳だ。
自室のベッド以外の場所で目覚めた記憶のほとんどない少女は、見慣れぬ光景に身を起こした。
少女は自身の右手を見下ろす。
そこには少女のものより一回り小さい手が握られていた。それはいつものことだ。
小さな手の主は、少女のかたわらで猫のように身を丸めて寝入っている。少女の大切な家族、さよだ。
少女は、自分たちが畳の上で並んで寝ていたことを知った。どおりで、なんだか少し体が痛いような気がする。やわらかな寝具しか知らない現代っ子は貧弱なのだ。
ただし、少女が頭を預けていた場所には、見覚えのある柄の布が丸めてあった。少年の縹(はなだ)色の髪に影を落としたような、落ち着いた花浅葱の布地に、濃藍の紋様と縁取り。少女にはそれが、いつも少年がまとっている袈裟だとすぐに知れた。つまりこれは、さよの少女に対する気遣いというわけだ。
しかし、なぜ気遣いが必要な場所に寝ているのか、それがわからない。
「さよ。ねえ、さよ」
寝起きでかすれた声は消え入りそうなほどにか細かったが、さよはパチリと両目を開いた。少女の起床の様子とは、まるで正反対だ。
さよはしなやかな動きで身を起こす。その双眸が、少女を見つめた。
「おはよう」
「……おはよう」
さよの挨拶に、少女はたっぷり二拍は置いて答えた。明らかに、頭に血がめぐっていない。
「体調はどう?」
「悪くはない、と思う、けど」
「けど?」
「……エアコンが恋しい」
公立の小中学校にも冷暖房が完備されるご時勢である。もう一度言うが、現代っ子は貧弱なのだ。
さよは数度瞬くと、慰めるように少女の頭をなでた。そして、丸まっていた袈裟を拾い上げると、慣れた手つきで身にまとう。
少女は周囲を見回した。完全な畳張りの部屋に、やはり見覚えはない。
廊下に面した障子も、その向こうの雨戸も開け放たれており、夏の朝の日差しを浴びる草木を臨むことができた。
「ここ、どこ」
「覚えてないの?」
少女は少しの間首を傾げ、そしてうんとうなずく。
「どこ?」
もう一度たずねた少女に、しかしさよは答えず、すっと立ち上がった。
「お目覚めになりましたか」
聞き覚えのない声に、少女は身をすくませた。
開け放たれた障子の先の廊下、少女にとってはさよの向こう側に、人影があった。
大きい。鴨居に頭をぶつけそうなほどの長身だ。
少女はポカンと口をあけて、その人物を見つめた。
黒を基調とした和装も、鮮やかな朱の隈取が目を引く端正な顔立ちも、一部のゆがみもなく真っ直ぐ伸ばされた漆黒の髪も。それらすべてがあまりに縁遠く、少女にとってはなんだか作り物めいて見える。
だけど、どこか見覚えがあるような。
「起きたけど、寝起きで少し混乱してる」
「なんと。それはそれは……」
「だから、もう少し待ってほしい」
「もちろんかまいませんよ」
なんだか少女の知らない場所で会話が進んでいく。
その時、少女の脳裏にひらめくものがあった。
やはり畳張りの、広い広い大広間。そこにたくさんの男の人たちがいて、それぞれがかなり個性的な服装をしている。彼らは刀剣男士と呼ばれる人ならざる存在で、確か彼らを虐げたどうしようもない人間がいて。それから、それから。
あの部屋にいた男たちの中に目の前の男がいたことを、少女はやっと思い出した。
「刀剣男士さん」
声をあげた少女を、長身の男がパチクリと瞬いて見下ろす。
「太郎太刀だよ」
さよが情報を補う。そちらに、男は軽く目を見張った。
「覚えているのですか」
「記憶はあるんだ」
さよと太郎太刀と呼ばれた男が言葉を交わす間に、少女は「たろうたちさん」と復唱する。
不意に少女は立ち上がった。自身と太郎の間に立っていたさよの肩をつかみ、自分の方を向かせる。
「なに?」
首をかしげたさよの頬を、少女は両手で包み込んだ。そのままペタペタとなでまわす。
さよは嫌がる風もなく、少女をじいと見つめた。
「生きてる」
「殺さないでよ」
真面目な表情で呟く少女に、淡々と言葉を返すさよ。そんな二人を、太郎は廊下から眺める。
大広間で相対したときはずいぶんしゃんとした少女に見えたが、今は寝起きのせいなのか、かなりマイペースの様子だ。しかし、さよの平然とした反応を見るに、これが彼女の素の姿なのかもしれない。
そうしてさよの頬をいじり倒していた少女だったが、不意にさよの頭に両腕をまわした。そのまま彼の頭を抱き寄せる。
さよの髪に顔をうずめるようにしてうつむいてしまった少女の表情をうかがい知ることは、刀剣男士の中でも一、二位を争う長身の太郎太刀にはできない。しかし、少女に応えるように彼女の背に回されたさよの手が、ことのほか優しく少女をあやすのを見て、よく見知っていたはずの少年が、本当にひどく遠い存在になってしまったのだなと、太郎は改めて思い知った。
「なんか、目が覚めたらいろいろ思い出した」
「そう」
少女はさよから身を離し、太郎の方に向き直った。
「なんか予想外に大事になって、本当にスミマセンでした……」
うなじが見えるほど深々と頭を下げる少女に、太郎はとまどう。
確かに、少女の襲来は様々な物をもたらした。呪いの気配がすっかり失われた離れ屋敷。分厚い雲の吹き払われた清々しい夏空。そしてなにより、みんなの心に重くのしかかっていた『彼』の開放。余波で少しばかり庭がボロボロになってしまったが、そんなものは些細なことだ。特に、『彼』を解放してくれたことに関しては、感謝してもしきれないところがある。
「あなたに礼を言うことはあれ、謝罪をされるようなことはなにも」
「いや、でも。傷つけないって言ったのにやらかしたし?」
「『彼』はもう折れていたのだと聞きました。あなたは『彼』の歪みを正し、あるべき場所へ還してくれた。その行いを非難するものはいませんよ」
「……そんなものですか?」
「ええ、そのようなものです」
もじもじと手持ち無沙汰にしていた少女の手を、さよがサッと握った。少女ははにかんでその手を握り返す。
そうして、少女は太郎を見上げた。
「それじゃあ私たち帰ります。
できたら、帰る前にみなさんにあいさつできたらって思うんですけど」
そんな少女の言葉に、しかし太郎は身を強張らせた。
太郎は元々表情が豊かなたちではない。しかし、彼が息を詰まらせたことは、初対面の少女にも伝わった。
「えっと、もちろん迷惑じゃなければですけど!」
あわてて付け加えた少女に、さよは首を横に降った。
「違うよ」
「な、なにが?」
少女はさよをすがるように見つめる。
「君が眠ったあと、説明だけして帰ろうとしたんだけど」
「あいさつせずに帰るところだったのか……」
さよはかまわず続ける。
「こんのすけに門を開くように言ったら、開かなかったんだ」
「えっ」
「あわてたこんのすけが政府に連絡を取ろうとしたら、通信網も断絶してるって」
「ええっ」
「原因を調べるって姿を消したから、多分戻ってくるまでは帰れないよ」
「そっちかー」
少女は天を仰いだ。
帰ると宣言した少女におかしな反応を見せた太郎は、多分そのことを知っていたのだろう。
太郎が一歩少女とさよに近寄り、その長い髪をゆらりと揺らした。
「みなあなたに礼を言いたがってましたから、お会いできれば喜ぶはずです」
「……すぐには帰れないみたいだし、その件もあわせてあいさつしとこうかな。
どうだろ、さよ」
「いいと思うよ」
「よければ案内しましょう」
「お願いします!」
少女はうなずいた。
少女を先導するために背を向けた太郎は、しかし背後から「たろうたちさん」と声があがったので、再び振り向いた。
「なにか?」
「えっと」
少女は太郎の前で髪に手ぐしを通し、ちょいちょいと服のすそを引いて佇まいを整える。
「今回はお騒がせしてすみませんでした。
なんだかもう少しやっかいになりそうですが、ちょっとだけよろしくお願いします」
深々と頭を下げた少女に、太郎も正面を向き直す。 そして、彼も頭を下げた。
「こちらこそ仲間を救っていただいて、本当にありがとうございました」
「あの。私は、自分の家族のことしか考えてませんでしたから」
「救われたことは事実です」
あの苦境の中でも、生来の明るさでみんなを元気付けた兄弟刀と違い、太郎は笑い方というものを知らない。しかし、この少女が耳を赤くしてうつむく姿を見ていると、その知らないはずの行為を思い出せそうな気がした。
「では行きましょうか」
「はい!」
「誰から会いに行くの?」
さよの問いに、太郎はちらりと彼に視線を向けて、わずかに逡巡する。
「そうですね。先ほど、打刀の何名かと脇差が集まっているのを見ました。まだ居ると良いのですが」
太郎の言葉に首を傾げる少女は、おそらく刀種など知らないのだろう。無理もないことだ。
困ったように一度だけさよに視線をやり、そのさよが特に反応を示さないのを見て、太郎を見上げた。
「おまかせします」