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岩波白帯を約100冊調べて、10冊ほどに「遅れた」おわびがあった。あと気になった文章いくつか。あとがきもいろいろ読み比べたりすると面白い。多くの人が本をあとがきから読むし。
ロック「市民政府論」白7ー7
訳者:鵜飼信成
1968年11月16日 第1刷発行
1983年4月10日 第17刷発行
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訳者が、本書の翻訳を志したのは昭和一三年(一九三八年)、京城帝国大学在職中で、当時京城におられた清宮四郎、尾崎朝雄などの諸教授に指導を受け、訳稿は一おうできていたが、その後、種々の事情から刊行の運びにいたらなかった。昭和一八年(一九四三年)、二年の軍務を終えて研究室に帰ってきた後、大多数はすでに出征して残り少なくなった学生諸君と、演習でこの本を読んだ。昭和二〇年(一九四五)暮に、占領下の朝鮮を引揚げた時、軍政部の De Angelis 氏が右の訳稿をわざわざ東京まで送ってくれたが、雑事に追われて、今日まで出版をみなかったのは、訳者の怠慢のいたすところで慚愧に堪えない。
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ちなみに鵜飼さんがこれを書いてるのが1967年(昭和42年)11月。鵜飼さんはハマーショルドの『道しるべ』をわりあいぱぱっと訳しているのだが。
ホッブス「リヴァイアサン」白4ー1
訳者:水田洋
1954年2月5日 第1刷発行
1992年2月17日 第27刷改訳発行
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訳者が初めて「リヴァイアサン」を読んだのは、一九四〇年、東京商科大学の高島善哉先生のゼミナールにおいてであった。そのとき使用したエヴマリン文庫本によって、翻訳をはじめたのは、一九四五年一〇月、セレベス島マカッサル(現スラウェシ島ウジュンパンダン)の終戦連絡所に、通訳として勤務していたときであり、第一分冊は、日本評論社の世界古典文庫62として、一九四九年三月に出版された。しかし出版社の倒産によって、第二分冊はゲラ刷のままでおわり、第一分冊の改訳版が、丸山真男、内田義彦両氏の紹介により、一九五四年二月に岩波文庫で出版された。第二分冊も、一九六四年四月に、ラテン語版との簡単な対照をふくめて出版されたが、第三・四部の売れ行きには出版社も訳者も悲観的だったので、出版社の方針によって、第二分冊に抄訳をつけることで、翻訳はうちきられた。(略)
第三、第四分冊が、岩波文庫で、ラテン語版との対照をふくめて、一九八二、一九八五年に出版されるようになったのには、一方では読者の要望があり、他方ではトゥリコーのフランス語訳と国原吉之助氏のご協力によっ、ラテン語版との対照が、訳者の非力をもってしっても、可能となったという事情がある。
第三・第四分冊にひきつづいて、おなじ方針で第一、第二分冊を改訳することは、とうぜんの義務であったが、ついに一〇年が経過して、その間直接には岩波書店及び理想社印刷に、多大の負担を強いることになってしまった。
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一九九一年一二月一五日。時間が経ちすぎて一回完成させたものをもう一度推敲させなければならなくなったパターン。
トクヴィル「アメリカのデモクラシー」白9ー5
訳者:松本礼二
2008年5月16日 第1刷発行
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訳者が「アメリカのデモクラシー」全訳の依頼を文庫編集部から受けたのは、三〇年以上前のことである。すぐに取り掛かるということではなかったが、それにしてもこれほどまで遅くなったのは偏に訳者の怠慢のためであり、読者に深くお詫びし、驚異的な忍耐をもって訳者の仕事(ないし無仕事)ぶりを見守ってくださった文庫編集部の寛容に感謝する次第である。最終的な刊行については担当の塩尻親雄氏に多大な迷惑をおかけした
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二〇〇八年四月一五日。塩尻さん受難編1。(無仕事の「無」に傍点)
E・H・カー「危機の二十年」白22ー1
訳者:井上茂
1999年1月16日 第1刷発行
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編集の山腰和子氏には大層ご苦労をかけました。
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「遅れた」とは書いてないが、なんかすごく……
A・ハミルトンほか「ザ・フェデラリスト」白24ー1
訳者:斉藤まこと*・中野勝郎
1999年2月16日 第1刷発行
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(略)また、岩波書店の塩尻親雄氏には、筆者の怠慢の故に大変なご迷惑をおかけし、同氏の表現によれば「脱兎のごとく」仕上げなければならなくなったことをお詫びするとともに、そのご助力に心よりお礼申し上げたい。(斉藤)
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塩尻さん二回目。青帯でもなんどとなく謝られている。。
アダム・スミス「法学講義」白105ー8
訳者:水田洋
2005年5月17日 第1刷発行
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私的な回顧をゆるしていただくならば、現在の訳者を含む三人のゼミナリステンが高島先生からキャナン版による下訳を依頼されたのは、太平洋戦争の直前の一九四一年のはじめごろだった。一二月の開戦はまだ予期されなかったし、卒業をひかえたわれわれは就職問題をきわめてふつうに考えていたが、夏休みのころには、卒業くりあげや学生の工場動員がうわさされるようになった。そういう緊迫感のなかで、立川の飛行場からとびたつ陸軍機が頭上で急降下爆撃の練習をくりかえす音をききながら、このような古典を訳し続けることは、ほがらかなよろこびでさえあった。下訳はわれわれが一二月にくりあげ卒業をするまで(すでに戦争ははじまっていた)に終了し、先生の点検にゆだねられた。点検は翌年の夏ごろにはいちおう終わって、真赤になおされた訳稿については、「君は一箇所、否定と肯定をまちがえたね」といわれたので、かろうじて及第したのだろう。それでも、上級生に「稚拙美」とひやかされていたぼくの文章は、真赤に直さなければものにならなかったにちがいない。
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ちょっと過去の私事。
ロバート・マルサス「初版 人口の原理」白107ー1
訳者:高野岩三郎・大内兵衛
1935年7月15日 第1刷発行
1962年9月16日 第23刷改版発行
1976年7月10日 第37刷発行
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稿を起こしてより四年、原稿が共訳者の手を幾度か往復しつゝある間に、経済学士谷口吉彦氏によってこれと同じ書の翻訳が世に出された。そしてこれはまことに良訳たるを失わない。従って今特に訳を出さねばならぬほどの理由はないが、訳述の態度は必ずしも同一ではないから、この書亦かの書の傍に併び行わるゝは敢えて妨げなきことであろう。
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のんびりやってたら他の人が……
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一九六一年改訳序
初版「人口の原理」が岩波文庫に収められてから二十六年がすぎた。この間に刷を二十二回かさねた。そして発行部数は五万を超えた。一方、訳のスタイルはふるくさくなり、用字・かなづかいも一変した。そこで今回、その全文を訳しなおした。高野先生が亡くなられたので、改訳はもちろん、私一人でやった。けれども、もとの訳に払われた先生のご指導は記念したく、「共訳」の形をそのままにとどめることにした。(大内)
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すこしほろりとする。
J・S・ミル「女性の解放」白116ー7
訳者:大内兵衛・大内節子
1957年3月25日 第1刷発行
1976年9月10日 第21刷発行
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私はいまから四十年ほど前にミルの "The Subjection of Women,"1869, London を翻訳して、『婦人解放論』と名づけた。この書は、私のドイツ留学中に、友人森戸辰男君らのお世話になって同人社という本屋から出版されたが、出版と同時に関東大震災に見舞われて、僅少の部数のほかはたいてい焼けてしまった。
それから改訳の考えをすてたわけでもなかったが、その機会もなかった。数年前、大内節子がその改訳をしようと申し出たので、それをすすめ、その訳稿を見てやろうと約束した。彼女は、まもなくそれを実行したが、私は、多忙にまぎれそれを見ることを怠っていた。この節小閑をを得て、それに目を通して、これを岩波文庫に収めることになった。あの当時の私の訳は、いまよみ直して見るとずいぶん古風であり誤訳もあった。これに比べると、この訳は、訳として正確であり、まちがいも少ない。文章はそう流暢でないうらみはあるが、時代のちがいを思い、なるたけ朱筆を省いた。一応のできばえであると信じている。
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なんだ、えらそうに。二人は親娘かな?
J・S・ミル『代議制統治論』白116ー9
訳者:水田洋
1997年5月16日 第1刷発行
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父親の早教育のせいかもしれないが、ミルの文章は決して名文ではなく、論理も明快ではない(『論理学』の著者であるのに)。息のながい文章のなかに、いろいろの挿入があって、全体の意味がつかみにくいばあいがある。訳文の生硬さのいいわけではなく、読者のご注意をお願いしておきたい。
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いきなりミルをDisりはじめる水田さん。
マルクス『経済学・哲学草稿』白124ー2
訳者:城塚登・田中吉六
1964年3月16日 第1刷発行
1976年7月10日 第16刷発行
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ふり返ると、この邦訳には長い年月がかかったものである。田中吉六氏の第一次訳稿を受け取ったのはすでに四年前のことである。それは原文に忠実な訳ではあったが、日本語として読みづらく、理解しにくいところもあったので、私が検討し加筆することになった。そして私の怠慢や留学・病気といった外的事情のために、また原文を読みとること自体の難かしさのために、ついに四年もの年月を費やすことになったのである。
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「日本語として読みづらく」などと偉そうな城塚さん。しかも「原文に忠実な訳」といったその口で、「原文を読みとること自体の難かしさ」などと口走る城塚さん。しかも怠慢。さらに留学。
そして城塚さんは続ける。
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本文を検討するさいも、訳注をつけるさいも、英訳のほか、すでに刊行された邦訳から教えられるところが多かった。特に藤野 渉氏の訳書(国民文庫版)は、すでに本訳書の初校が出てから見ることができたのであるが、私の見解と一致する点が多く、教えられるところも多かった。ここであらためて感謝の意を表したい。
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なんでこうのんびりできるのか。マルサス「経済学原理」(上巻・小林時三郎訳)の訳者序文にこうある。
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ところで、本訳書は、しばらく以前にその仕事をはじめて今日にいたったが、今回、岩波書店がその出版の労をとられることになったのは、訳者にとってまことにさいわいである。このような不利な出版は、岩波書店の学問にたいする深いお理解がなければ実現しえなかったことである。
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ふむ。
マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日」124ー7
訳者:伊藤新一・北条元一
1954年9月25日 第1刷発行
1976年2月20日 第22刷発行
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ほんやくは一昨年秋にとりかかり、昨年の秋清書にかかったが、原稿の一部の紛失や健康状態などのため完成が大変遅れた
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遅れてないよ! ぜんぜん遅れてないよ!
(清書の清、大変の変、旧字)
マルクス・エンゲルス「資本論綱要」124ー9
訳者:向坂逸郎
昭和二八年五月二五日 第一刷発行
昭和五〇年九月二〇日 第二二刷発行
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なお、これらの諸論文は、私がかつて翻訳して改造社版『マルクス・エンゲルス全集』に発表したものか、或は訳出したままで未発表に終ったものであるが、二十年近くも前のことであるから、今回新に全部改訳した。改訳に当たっては、山崎八郎と向坂正男の両人がすべて原本と 照して、疑問の点については私と相談し、誤りを正し、文章をやわらかにした。それをさらに私自身で目を通して手を加えた。外に嶺卓二の協力を得た。この三人の努力がなかったら、この書はこんなに早く日のめを見ることはなかったであろう。
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岩波なのに早い。なぜそんなに急ぐのか……!?
ジョン・リード「世界を揺るがした十日間」202ー1
訳者:原光雄
1957年10月25日 第1刷発行
1976年1月20日 第26刷発行
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訳者は、第二次世界大戦中に日本の敗戦を予想し、戦後の民主主義時代になったら出版するつもりで、本書を一九四四(昭和一九)年に訳出しておいた。
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つまり、戦中に抑圧されたテーマということなのだろう。社会主義関連は戦後になって「待ってました」とばかりに出版されている印象。GHQはいたけど。
エンゲルス「反デューリング論」128ー5
訳者:栗田賢三
1952年4月5日 第1刷発行
1974年2月18日 第20刷改版発行
1976年2月20日 第22刷発行
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この訳書の上巻が刊行されてから、下巻が出版されるまでに、もっぱら訳者の怠慢のために、一〇年以上も経過した。その結果、上巻は正字体、下巻は略字体という用字上の相違ばかりでなく、その他用語上でも若干のくいちがいが生じ、読者にご迷惑をかけた。このたび上巻を改版する機会をえたので、用字、用語を統一するとともに、訳文全体にわたって再検討を行ない、旧訳のいろいろな不備を訂正した。
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下巻は「昭和四一年六月一六日第一刷発行」1966年か。今度は下巻が気にならないでしょうか。
マルクスとエンゲルス「革命と反革命」128ー3
訳者:武田隆夫
1955年1月25日 第1刷発行
1976年10月20日 第23刷発行
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なお解説としてはついでながらここで多少の感慨を述べることがゆるされるならば、訳者が、大内兵衛、向日坂逸郎両先生の御推挙により、岩波書店から本書の翻訳を委嘱されたのは、戦後まもなくのことであり、日本の社会においては、いずれかといえば「革命」についてより多く語られていたころであったが、訳者の怠惰のためにその完成がのびのびになっているうちに、情勢は一転して、逆に「反革命」について論ぜられることのほうが多いような時期となってしまった。
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でもやっぱりのんきな人はいる。
トロツキー「わが生涯」127ー10
訳者:志田昇
2001年3月16日 第1刷発行
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この翻訳が正式にわれわれの仕事になってから、完成するまでに足かけ三年以上もかかっている。もちろん、その間ずっと、この翻訳に取り組んでいたわけではない。他の多くの仕事によって何度となく長期の中断を余儀なくされた。それでも何とか完成にこぎつけることができて、心底ほっとしている。
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また、時代が経てばこうなる。先訳があり、しかもソ連もなく。のんびりとしている。
マックス・ヴェーバー「社会学の根本概念」209ー6
訳者:清水幾太郎
1972年1月17日 第1刷発行
1976年11月10日 第7刷発行
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翻訳の仕事が終わってみると、この論文に関する幾つかの感想が心に浮かんで来る。この論文の翻訳を岩波書店と約束したのは、二十五年前のことである。それ以来、いつも気にかかりながら、私はなかなか仕事に着手する気持ちになれなかった。
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僕は思うのだが、これはちょっと――いやかなり――というかものすごおく無責任ではないだろうか。
プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について」664ー5
訳者:柳沢重剛
1996年2月16日 第1刷発行
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――(略)凡例にも断ったように、本訳には多数の図版が挿入されて読者の便を図っている。これはすべて東海大学の鈴木八司氏が、多忙の間を縫って、選び、配置して下さったものである。改めてお礼を申し上げたい。また訳者は、上記 Bude 版[訳者が使用した底本のうち、新しいもの "Christien Froidefond(ed.), Plutarque,(Euvres morales, Tome V.2e partie (Paris, 1988)"――V.2のあとのeは上付文字――])を、訳稿を編集部の塩尻親雄氏に届けた直後に入手した。そして、この新版を参照せずに拙訳を上梓するのはよくないと考えて訳稿を返却していただいた。ところがその後訳者は、勤めの方が多忙を極め、この新版の「参照」がひどくおくれてしまった。こうして岩波書店、特に塩尻氏にご迷惑をかけたことをお詫びし、同時に氏が、私に対して親切に苦心を重ねて下さったことに、厚くお礼を申し述べる。
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私はこの拙い訳を故斉藤忍髄氏に捧げることにする。斉藤氏はかねがねぜひ本書を訳したいとの強い希望をもっておられて、したがって、本来ならば斉藤氏が本書の訳者となられるはずだったからである。しかるに斉藤氏が、田中美知太郎先生と相前後して、突然に逝去されたために、私が代役を務めることになったのである。しかし訳了した今もなお、無事に代役を務めおおせたと、胸を張って断言することはできないが、私もいずれハデスの国に行く、その時は、この拙訳を手土産に斉藤氏を訪問しようと思っている。
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いきなりとんでもないことを言い出すのであった。
三笠宮崇仁「古代エジプトの神々」
デイヴィッド・近藤二郎「古代エジプト人――その神々と生活」
ソレル「暴力論」138ー2
訳者:今村仁司・塚原史
2007年11月16日 第1刷発行
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とはいえ、ソレル原文は難攻不落の要塞さながらに本訳者の前進を妨げたので、訳業は当初遅々として進まず、二〇〇五年三月三一日に今村さんからもらったメールには「今日、岩波文庫の愛理さんにあいました。ソレルの暴力論のもくじの日本語訳を早くほしいそうです」とあった。「愛理さん」とは、岩波書店の担当編集者、清水愛理さんのことで、もちろん「目次」を訳せばよいという意味ではなくて、翻訳自体の速度を上げるようにという、さりげない暗示である。
その後、共同作業もようやく軌道に乗り始めた矢先の二〇〇六年春、今村さんは突然体調を崩され、一時回復されたものの、二〇〇七年五月五日未明、享年六五歳で帰らぬ人となった。最後に受け取ったメールは、その一ヶ月ほど前の四月七日のもので「岩波文庫の解説の修正をありがとうございました。すべて結構です」とあり、覚悟のほどが偲ばれる(「修正」とは、「解題」などとの整合性を保つためのいくつかの手直しを指す)。四月半ば、東京府中の病院にお見舞いに行ったとき、今村さんは、夏には自分はもういないかもしれないが、できあがった本をなんとか見たいものだと、ポツリとつぶやいたのだが、結局、刊行が秋になってしまったことを、あらためて個人にお詫びしたい。
今村さんの急逝後、翻訳の仕事は飛行中に突如機長を失った航空機内の様相を呈したが、副操縦士は、優秀で果敢なパーサー清水愛理さんの励ましと協力を得てなんとか飛行を続け、墜落も不時着もせずにようやく無事着陸することができた。本書の訳文が可能なかぎり正確で、スコシでも読みやすくなっているとすれば、それは清水さんの献身的な努力のおかげであり、今村さんとともに、この場を借りて厚く御礼申し上げる。
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